久多荘(読み)くたのしょう

百科事典マイペディア 「久多荘」の意味・わかりやすい解説

久多荘【くたのしょう】

山城国愛宕(おたぎ)郡の丹波・近江境にあった山間荘園。現京都市左京区の久多一帯に比定される。成立時期は不明だが,1064年には京都法成(ほうじょう)寺領で,同寺および宇治平等院の修理料所(所)であった。1159年近隣にある大悲山(だいひさん)寺(峰定寺)領となるが,この時には田15町が開かれていた。鎌倉時代末期には足利家領となり,のち(1449年以前)領家地頭職が寄進されて醍醐寺三宝院領となる。1459年には棟数145を数え,集落としてかなりの発達をみていた。その後三宝院領として続くが,1579年織田信長により近江朽木(くつき)氏代官職に任じられ,以後は実質的に朽木氏支配下に置かれた。鎌倉初期の久多荘には〈十人百姓〉と称される上層農民が存在し,同末期からは〈十名〉体制が維持された。主要産業は木材の切り出しと筏(いかだ)流しで,筏流しをめぐって隣接する近江朽木荘とたびたび相論があり,同じく隣接する近江葛川(かつらがわ)との間で境相論を繰り返した。こうした相論の過程で上,中,下の〈中〉が結成され,室町時代にはこの3惣中が寄り集って志古淵(しこぶち)神社信仰で固く結ばれた〈久多惣荘〉が形成されていた。こうした惣組織の強さは,朽木氏の支配を嫌った荘民逃散(ちょうさん)という形で表れている。

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改訂新版 世界大百科事典 「久多荘」の意味・わかりやすい解説

久多荘 (くたのしょう)

山城国愛宕郡(現,京都市左京区久多)にあった山間地域の荘園。成立事情は不明。1159年(平治1)当時には法成寺(ほうじようじ)領であったが,うち15町が大悲山寺領に切り出されている。杣山は平等院,法成寺の修理料所であった。1233年(天福1)の田地面積は10町6反小。このほか毎年28貫文の山河公事を納入永仁(1293-99)以前に地頭職が設置された。1379年(天授5・康暦1)には足利義満によって醍醐寺三宝院に寄付され,天正年間(1573-92)まで三宝院領として維持された。同荘では鎌倉以降戦国期にいたるまで,10名からなる名(みよう)体制が維持されていたが,1459年(長禄3)の棟別銭に関する史料により当時の棟数が145宇であったことが知られる。少なくとも1536年(天文5)以前には関所が設置され,同荘公文(くもん)が支配していた。43年以降は京都の土倉大森氏の請負となるが,79年(天正7)朽木(くつき)氏に対する代官職補任状を最後として史料がとだえる。
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