池尻村(読み)いけじりむら

日本歴史地名大系 「池尻村」の解説

池尻村
いけじりむら

[現在地名]狭山町池尻など

東野ひがしの村の南にある。東の東除ひがしよけ川、西の西除川に囲まれ、南は狭山池と半田はんだ村。中高野街道が南北に通る。地名は「新撰姓氏録」(河内国未定雑姓)に「池後臣 天彦麻須命之後也」とある池後氏の居住地であるからとも、狭山池の池尻にあるからともいう(大阪府全志)。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧蔵文書)に宝樹院領として「大宮宰相中将半田池尻」がみえる。南北朝時代には度々戦場となり、南朝方に属した高木遠盛の延元三年(一三三八)一〇月日付軍忠状(和田文書)に、同年九月二九日のこととして「属佐備三郎左衛門尉正忠手、相向池尻半田」とある。西除川東岸の小字西池尻にしいけじりの一部とその南方にある高台の辺りは、南の狭山池と東の低地に画され、古城ふるしろの小字名が残る。当時河内守護細川顕氏が率いる北朝軍は野田のだ(現堺市)に城郭を構え、池尻・半田辺りには陣営を設けていた。また正平二年(一三四七)八月二四日、和泉守護細川顕氏が率いる北朝軍に対し、楠木正行の率いる和泉国の武士和田蔵人助氏が池尻合戦に参加していた(同七年六月日「和田助氏軍忠状」和田文書)

文禄三年(一五九四)一二月二日豊臣秀吉が北条氏規に与えた知行目録(北条家文書)に村名がみえ、以降幕末まで狭山藩北条領。

池尻村
いけのしりむら

[現在地名]観音寺市池之尻町いけのしりちよう

木之郷きのごう村の北、新田しんでん村の西に位置し、財田さいた川と柞田くにた川に挟まれた小丘母神山はがみやま丘陵(九二メートル・周囲約四キロ)の北側に立地。池・亀尾かめお池・粟屋あわや池・五月さつき池、早苗さなえ(植田村)赤土あかつち(出作村)守屋もりや池・鎮守ちんじゆ池など一〇ヵ所あまりの溜池に囲まれて集落があり、「西讃府志」に「此村仁池ノ後ニアリ、故ニ名ヲ得タリ」とある。池之尻とも記す。母神山丘陵にはかつて後期古墳を主とする古墳が密集していたが、東半分は早くから果樹園として開墾されて消滅、現在は約六〇基が残存する。これらの古墳築造にかかわった集団との関連が推定できる式内社黒島くろしま神社が字黒島に鎮座する。

寛永国絵図に村名がみえるが、高は山本やまもと郷に一括されている。

池尻村
いけじりむら

[現在地名]伊丹市池尻一―七丁目・西野にしの七―八丁目・奥畑おくはた二―五丁目・寺本てらもと三丁目・同五―六丁目

武庫むこ川の左岸で支流の天王寺てんのうじ川が合流する辺りに位置する。地名は昆陽こや下池の閘門尻にあたることに由来するという。慶長国絵図に村名がみえ、高四五三石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳・天保郷帳とも高五〇三石余と変化がなかったが、元禄三年(一六九〇)に検地を受けている(「池尻村検地帳」朝山家文書)。摂津一国御改帳によると幕府領大和小泉藩預地。元和三年伊予大洲藩領となり、安永九年(一七八〇)幕府領に戻ったが、引続き同藩預地として明治維新を迎えた(伊丹市史)

池尻村
いけじりむら

[現在地名]世田谷区池尻三―四丁目・三宿みしゆく一―二丁目

北東から南西へ通る矢倉沢やぐらさわ往還の北にある。荏原えばら郡に属する。同往還を隔てて南は池沢いけざわ村、東は上目黒かみめぐろ(現目黒区)、北は池沢村飛地、西は三宿村。飛地が北西の方向、池沢村飛地と三宿村に挟まれた地点にある。上北沢かみきたざわ分水と烏山からすやま用水が北西部の池沢村飛地との境で合流し、目黒川となって北境に沿って東へと流れる。当村は一説には吉良氏世田谷一二将の一人橋本天王丸の子兵庫(重寿)が吉良家の没落後、元和―寛永年間(一六一五―四四)に開発したとされ(常光院境内碑文など)、当初は池沢村と一村をなしていたが、元禄八年(一六九五)の検地以前に池沢村が分れたという(風土記稿)

池尻村
いけじりむら

[現在地名]大垣市池尻町・神明しんめい枝郷えだごう菅野すがの

杭瀬くいせ川左岸、菅野川流域に位置し、東は河間がま村・興福寺こうふくじ村。当村の北部を中山道が東西に通り、枝郷池尻入方いけじりいりかた・池尻新入方がある。戦国期に池尻城があった。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高九八一石余。正保郷帳では田高八七二石余・畑高三二七石余(岩瀬文庫本正保郷帳では高一千二〇七石余)。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では池尻村八五九石余・池尻入方三四四石余・池尻松左衛門分一八〇石余。天保郷帳では一千四〇二石余。享和三年(一八〇三)の家数・人数は池尻村八三戸・三〇五人、池尻入方二二戸・九二人、池尻新入方四戸・九人(赤坂町史)

池尻村
いけじりむら

[現在地名]岸和田市池尻町

小松里こまつり村の東、牛滝うしたき川の左岸、久米田くめだ池の堤尻に位置する。四面平地。当村と新在家しんざいけ村にまたがる久米田池から流下するあまノ川が村内を北流し、牛滝街道が東から久米田池の堤を走り、久米田道となって西隣の額原がくはら村へ入る。地名は久米田池の堤尻に位置することから生じたものであろう。当地には行基建立の隆池りゆうち(久米田寺)があるが、同寺の所在を記して、天平勝宝元年(七四九)一一月一三日の日付をもつ隆池院流記資財帳(久米田寺文書)は「泉南郡上池田村」とし、「行基年譜」は「泉南郡下池田村」とする。

池尻村
いけじりむら

[現在地名]徳島市国府町池尻こくふちよういけじり

日開ひがい村の西にあり、南は観音寺かんのんじ村。寛文四年(一六六四)までは以西いさい郡に属した。天正一七年(一五八九)五月二八日の下羅井定書(坂東家文書)に池尻村とみえる。当村は中世から下羅井したらい用水によって灌漑されていたとみられ、同定書によれば番水は五番・四時と決められていた。慶長二年(一五九七)の分限帳では五〇石余が太田茂兵衛、一八石余が古川文助、一二三石余が井関八郎左衛門、五〇石余が小松原半六、七〇石余が印田半次郎の各知行分。正保国絵図では高二九四石余。

池尻村
いけのしりむら

[現在地名]井口村池尻

南に赤祖父あかそぶ山を望み、村の中央部を赤祖父川が西流する。北西は森清もりきよ(現福野町)、東は久保くぼ村、南は蛇喰じやばみ村。村の中央部を井波いなみ城端じようはなを結ぶ道が東西に走る。村の東端にある丘陵状の墓地一帯は井口城跡である。元和五年(一六一九)の家高新帳では「しやはミ与」に属し、「拾間 いけノしり」とある。正保郷帳では高六六七石余、田方四二町四反余・畑方二町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高六一〇石、免五ツ二歩、小物成は山役四五匁(三箇国高物成帳)

池尻村
いけじりむら

[現在地名]関市池尻

湾曲流する長良川右岸にあり、東から南の対岸は下有知しもうち村・小瀬おぜ村。武儀むぎ郡に属し、白鳳期の弥勒みろく寺跡がある。村名の由来を「新撰美濃志」は「池水の流れ出るあたりなる由」とするが、弥勒寺跡は法起寺式の伽藍配置をとり、大和法起ほつき(現奈良県生駒郡斑鳩町)が池後(池尻)寺と称することから弥勒寺と関連があるとする説もある。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録(京都大学蔵古文書集)に「池尻郷良権」とみえ、国衙領であり、かつ大覚寺統に伝わる皇室領であった。

池尻村
いけじりむら

京都東寺領大山おおやま庄内の村名。庄域の東部、現在のちよう長安寺ちようあんじを中心とした池尻谷およびその周辺に比定される。康平四年(一〇六一)七月の大山庄坪付案(東寺文書、以下同文書)では池尻谷は「一条一有方里」「有防独条一山寺里」に比定され、坪名から一一世紀半ばの段階で現在と同じ位置の谷の中ほどに溜池(現池尻池)が造成されていたことが明らかである。東寺と地頭中沢基員の下地中分の際に作成された永仁三年(一二九五)三月八日の大山庄地頭中沢基員分田坪付注文および同日の大山庄雑掌祐厳等連署分田坪付注文案によれば、池尻村内一井いちい谷一四町四段一〇代・畠三町および賀茂茎かもがくき谷田一町八段三五代、西田井にしたい村内八町七段五代・畠二町の合計二五町・畠五町が東寺方へ引渡されたが、一井谷および賀茂茎谷は池尻村に含まれており、鎌倉期の池尻村は大山庄東部のかなりの広がりをもった村であったことが知られる。

池尻村
いけじりむら

[現在地名]三田市池尻・弥生やよいおか富士ふじおか

上深田かみふかた村の西に位置し、三田丘陵を横断する横谷よこたにの山間部の農業地域。真谷しんたに池・ふたたに池・あしたに池など溜池が多い。中央部を西へ小屋寺こやでらを経て美嚢みのう郡へ至る道が通る。もと上深田村の一部であったが、享和三年(一八〇三)に分離して池尻村となり、高一〇四石余(「御領分御高付覚」九鬼家文書)

池尻村
いけじりむら

[現在地名]川崎町池尻

田原たばら村の北に位置し、西はいと(現田川市)。田原村と糸村の両境を中元寺ちゆうがんじ川が流れる。中世の池尻別符の遺称地。元和八年人畜改帳では高七一二石余、家数六一・人数一六二(うち百姓一三・名子一三)、牛一四・馬七。宝永四年(一七〇七)の田川郡本田郡鑑(猪膝手永中村家文書)では高七一二石余。郷村高帳では高八七六石余、うち新田高九四石余。嘉永五年(一八五二)の田川郡各手永戸口調(糸田町史)では家数八一・人数三五四、池六、馬一一・牛四八。旧高旧領取調帳では高七九七石余。東方の椎の木しいのき山麓には古第三紀の地層があり、現川崎町域でも有数の産炭地で、「豊前村誌」には石炭五〇万斤・煽石一五〇万斤も産したとある。

池尻村
いけじりむら

[現在地名]橿原市西池尻町

畝傍山の西南麓、吉田よしだ村の東南に立地する。古代の益田ますだ池池尻に所在すると伝承し、弘安八年(一二八五)三月の某起請文案(春日神社文書)によると「大和国高市郡増田池尻住人禅寿王左衛門」、至徳三年(一三八六)の一乗院良昭維摩会講師段銭帳(天理図書館蔵一乗院文書)に「益田」の郷名がみえる。なお嘉保二年(一〇九五)正月一〇日の大江公仲処分状案に「国府庄在大和国、本名池尻」とあるのは現在の小字軽古かるこか。

池尻村
いけじりむら

[現在地名]小野市池尻町

太郎太夫たろうだゆう村の南、加古川左岸に位置し、東の兵陵麓から緩斜面上に集落が形成されている。西の田中たなか村と東の池尻村が明治九年(一八七六)に合併し、池尻村となったとされるが(加東郡誌)、郷帳類には田中村の記載例がない。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は門前もんぜん村に同じ。正保郷帳では田方三〇六石余・畑方二〇石余。延享五年(一七四八)にも村高は同じで、田畑合せて二二町余(「田畑改帳」池尻町有文書)灌漑用水は丘陵麓に築造された六ヵ所の溜池が本新田高二三五石余を潤すほか、太郎太夫村、市場(野入垣内か)と当村の三ヵ村立会稗田ひえた池から得ている(「両郷村々用水掛控」前田家文書)

池尻村
いけじりむら

[現在地名]加古川市平荘町池尻へいそうちよういけじり

升田ますだ村の北東に位置し、南は加古川に接する。東部を西にし川が流れる。天文元年(一五三二)八月一七日の報恩寺旧記覚(報恩寺文書)によると地蔵堂・鎮守十禅子が存在した。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方一三八石余・畑方八石余。寛保二年(一七四二)村明細帳(平之荘神社文書)によると田九町余・分米一六二石余、畑一町三反余・分米一〇石余、新田畑一一町一反余・分米四九石余。小物成は犬米・草藁銀・請林運上銀・陸塩売札運上銀、郷蔵一、家数六三・人数三二五、蚕種商人一・藁屋根葺一、牛一四、かみノ池・与次郎池があり、禅宗地蔵寺(現曹洞宗)若一王子わかいちおうじ権現宮(現益気神社)ノ明神・弁財天・若宮大明神などがある。

池尻村
いけじりむら

[現在地名]亀岡市馬路うまじ町 池尻

亀岡盆地の北端に近く、北はすぎ村・美濃田みのだ村、東は小口おぐち村、南は馬路村、西は船井郡屋賀やが(現八木町)。集落北の小山の背後と東方に大きな灌漑用水池が三つあり、地名はこの池によると考えられる。

中世は美濃田保の内に含まれ、文明年間(一四六九―八七)のものと思われる室町幕府奉行人連署奉書案(蜷川家文書)によれば、「美濃田保池尻村」と「八田七村」が用水相論を起こしている。

池尻村
いけじりむら

[現在地名]橿原市東池尻町、桜井市大字橋本

天香久あめのかぐ山東北方、膳夫かしわで村東南に立地。「磯城郡誌」には「古昔の磐余いはれ池の一極端に当れる地なりしを以て此名あり」と記す。近世初期は南山みなみやま村の内。元禄郷帳に「南山村之枝郷」とある。

池尻村
いけじりむら

[現在地名]大和高田市大字池尻

高田川の東部、高田村・神楽じんらく村の北に所在する。慶長郷帳では、村高二八五・九四石。うち二三四・四石は永久えいきゆう(寺跡は現天理市)領。四五・二石は三輪みわ神領。六・三四石は法隆寺領。寛永郷帳では村高二八五・九一石、うち永久寺領は二三〇・〇四石でほぼ変りはないが三輪神領四九石、法隆寺領は六・八七石とある。

池尻村
いけのしりむら

[現在地名]福井市池尻町

福井平野北西部の小丘陵に位置し、東は黒丸くろまる村と接する。村名は寛永九年(一六三二)の「末代相定八幡村用水之事」(「浜四郷村誌」所収)のうちにみえ、正保郷帳によれば田方四六八石余・畠方六八石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)給人地方渡名寄帳によると、蔵入地二一二石余のほか、岡部左膳・雨森源四郎の相給知行地であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報