鎌倉時代後期の天皇(在位1287~98)。名は煕仁(ひろひと)。持明(じみょう)院統の後深草(ごふかくさ)天皇の第2皇子。母は玄輝門院愔子(げんきもんいんいんし)。1275年(建治1)大覚寺(だいかくじ)統の後宇多(ごうだ)天皇の皇太子となり、87年(弘安10)即位。両統が交互に皇位につく例を開いた(両統迭立)。90年(正応3)までは後深草上皇の院政で、以後親政を行った。譲位後、後伏見・花園(はなぞの)両朝の院政を1313年(正和2)までとった。和歌と書にも優れ、京極為兼(きょうごくためかね)に『玉葉(ぎょくよう)和歌集』を撰修(せんしゅう)させた。日記『伏見院御記』があり、一部現存する。文保(ぶんぽう)元年9月3日没。御陵は京都市伏見区深草北陵。
[佐々木久彦]
『岩佐美代子著『あめつちの心――伏見院御歌評釈』(1979・笠間書院)』
第92代に数えられる天皇。在位1287-98年。89代後深草天皇の第2皇子。母は洞院実雄の娘玄輝門院愔子。諱(いみな)は煕仁,持明院殿と称された。1287年(弘安10)10月践祚,翌年3月即位すると親政をしき,鎌倉末期の公家政治振興に努めた。院評定衆の代りに宮中に議定衆をおき,記録所に庭中訴訟を聞くなど,当時としては政治を刷新するものであった。このころ皇統が持明院・大覚寺両統に分かれ,皇位継承問題から激しい政争があった中で,伏見天皇は持明院統の地位を確立した。和歌,書道にすぐれ,和歌では京極為兼を側近として歌壇を形成し,《玉葉和歌集》を勅撰させた。書道は流麗な筆跡で伏見院流とよばれ,その和歌切は広沢切と称されて尊重されている。1313年(正和2)落飾して法諱を素融といった。《伏見院御集》という歌集のほかに,日記《伏見院宸記》や文書が残っている。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。
執筆者:飯倉 晴武
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1265.4.23~1317.9.3
在位1287.10.21~98.7.22
後深草天皇の第2皇子。名は熙仁(ひろひと)。母は洞院(とういん)実雄の女玄輝門院愔子(いんし)。1275年(建治元)大覚寺統の後宇多天皇の皇太子となり,87年(弘安10)践祚(せんそ)。後深草上皇の院政をへて,90年(正応3)から親政,裁判制度の整備などに積極的にとりくんだ。京極為兼を和歌の師とし,歌壇の振興にも努めた。1313年(正和2)出家,法名素融。
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…〈二十一代集〉中第14番目の勅撰和歌集。20巻。伏見院の院宣により1312年(正和1)に京極為兼が撰進。《玉葉集》と略称。後の《風雅和歌集》とともに,京極派の歌風を中心とする勅撰集として,《新古今集》以降の勅撰集のなかで異彩を放っている。当時の歌壇における二条・京極・冷泉3家の対立を背景に,本集の成立には複雑な経緯があり,伏見院ははじめ在位中の1293年(永仁1)に勅撰集の撰定を二条為世,京極為兼,飛鳥井雅有,六条隆博に諮問した(雅有は不参)が,撰定方針等をめぐり為世と為兼の間に対立を生じ,おりからの為兼の配流,隆博・雅有の物故もあり,この企図は中絶した。…
…これらには後鳥羽天皇を中心とする《新古今集》の宮廷歌人の筆跡がまとまって伝存し,法性寺流を基調としながらも個性的な筆勢が明らかである。名筆として知られた伏見天皇(1265‐1317)は平安時代の書に習熟し,復古的な流麗さをもって著名で,その皇子尊円親王は世尊寺流に宋風を加味した尊円流を創めた。青蓮院(しようれんいん)流とも呼び,後世の御家流(おいえりゆう)の基礎となった。…
※「伏見天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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