乙訓寺(読み)おとくにでら

精選版 日本国語大辞典 「乙訓寺」の意味・読み・例文・類語

おとくに‐でら【乙訓寺】

京都府長岡京市今里にある真言宗豊山派の寺。山号、大慈山。推古天皇勅願により聖徳太子が開基。弘仁二年(八一一)、空海が別当になり鎮護道場とした。寛平九年(八九七宇多天皇が行宮(あんぐう)とし、法皇寺とも号した。早良(さわら)親王幽閉の寺として知られる。おとぐんじ。今里の弘法さん

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日本歴史地名大系 「乙訓寺」の解説

乙訓寺
おとくにでら

[現在地名]長岡京市今里三丁目

今里いまざと集落北方にある。真言宗豊山派。山号は大慈山、本尊合体大師像。洛西観音霊場第六番札所。現寺地北側一帯の発掘調査が行われ、奈良末―平安初期の遺構が確認されているが、とくに金堂の北側にある遺構は講堂跡と推定されている。これにより長岡京以前からかなりの規模の寺院が当地にあったことが判明する。延暦四年(七八五)九月、造長岡宮使藤原種継が暗殺され、これに連座した皇太弟早良親王が廃されて乙訓寺に幽閉。食を断って抗議していた親王は淡路あわじ(現兵庫県)配流の途中で憤死したが、遺骸はそのまま淡路島まで運ばれた(水鏡)

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔空海の入寺〕

弘仁二年(八一一)唐から帰朝ののちいったん高雄山たかおさん(神護寺、現京都市右京区)に入った空海は、その地は不便として乙訓寺に移り、同年一一月九日付太政官符をもって乙訓寺別当に任じられ、修造を命じられた(高野大師御広伝)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「乙訓寺」の意味・わかりやすい解説

乙訓寺
おとくにでら

京都府長岡京市今里にある真言宗豊山(ぶざん)派の寺。山号は大慈山(だいじさん)。推古(すいこ)天皇の勅願で、聖徳太子の開創と伝えられる。784年(延暦3)桓武(かんむ)天皇が都を山城(やましろ)(京都府)長岡の地に移し、当寺の堂宇を構営したとされるが、1966年(昭和41)の寺趾(じし)の発掘調査により、長岡京以前からかなりの規模の寺院が当地にあったことが知られている。785年藤原種継(たねつぐ)の暗殺に関して早良(さわら)親王が廃されてここに幽閉されたことが『日本紀略』にみえる。811年(弘仁2)嵯峨(さが)天皇は弘法(こうぼう)大師(空海)を当寺の別当(べっとう)に任じ、鎮護国家の道場とした。その後、寛平(かんぴょう)法皇(宇多(うだ)天皇)がこの寺に行宮(あんぐう)を置き法皇寺(ほうこうじ)とも称した。室町時代に南禅寺末の禅刹(ぜんさつ)になったが、江戸時代の元禄(げんろく)年中(1688~1704)護持院隆光(りゅうこう)の請いにより真言宗に復帰し、徳川綱吉(つなよし)の母桂昌院(けいしょういん)の外護(げご)を得、諸伽藍(がらん)、八幡神祠(はちまんしんし)、鐘楼を建て、寺田100石を寄進された。そのために隆光を当寺中興第1世と仰ぐ。寺宝には藤原時代(平安後期)の毘沙門天(びしゃもんてん)像がある。

[野村全宏]


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改訂新版 世界大百科事典 「乙訓寺」の意味・わかりやすい解説

乙訓寺 (おとくにでら)

京都府長岡京市にある真言宗豊山派の寺。山号は大慈山。法皇寺ともいう。寺伝では,推古天皇の勅願というが,最近の発掘調査では,白鳳期の瓦を伴う建物跡が発見され,創建年代を示唆する。文献では,長岡京遷都の翌785年(延暦4)藤原種継の暗殺事件に関連して皇太子早良(さわら)親王がこの寺に幽閉されたとみえるのが初見。811年(弘仁2)から翌年まで空海が別当として居住。その間,最澄が訪ねてきたこともあった。足利義満のとき,南禅寺末に属したが,1568年(永禄11)に兵火で焼失。元禄年間(1688-1704),隆光が復興し,真言宗になった。盛時には子院12坊があったというが,今は大師堂(本堂),毘沙門堂などを残すにすぎない。
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