今里村
いまざとむら
[現在地名]長岡京市今里・柴の里・野添・一文橋・うぐいす台
現長岡京市北部の平地部に位置する。南は開田村、北は井内村で、井内村西部の山麓部に飛地がある。乙訓寺が村内にあり、早くから開けた集落と思われるが、覚性法親王の歌に次のようにみえる。
<資料は省略されています>
康永三年(一三四四)の寂照院仁王像胎内文書には、今里村は約一〇〇名が結縁する大きな村として登場する。源政賢・源頼泰と姓名をもつ者が二名、三郎殿と殿を称する者が一名、「男女七人」と名を記さない者もある。一方、尼妙円・源氏女など女性が三六名確認でき、他村に比べて多く、また三十三年忌と記す者二名、七年忌一名がある。寛正三年(一四六二)三月七日付堀内為頼名主職売渡状(革島文書)に「今里庄八幡領」とみえる。
享和三年(一八〇三)の村内書上帳によれば、惣村高一千二二七石は九五四石余の田高と一七二石余の畑屋敷高からなり、幕府領六〇石、禁裏増御料五〇石、伏見宮家二六九・四九五石、大聖寺(現京都市上京区)五八石、花山院家一〇五石、西園寺家一〇四石、大炊御門家一〇〇石、松木家一〇〇石、万里小路家九〇石、転法輪家五〇石、葉室家五〇石、西洞院家八〇石、新宰相典侍領六二石、長門局領三九・五〇五石、鷲尾家九石と一五の領主に配分されている。
今里村
いまざとむら
[現在地名]上五島町今里郷
見かの浦村の西に位置する。山王山・松尾山の東麓を今里川が流れ、今里浦に注ぐ。小浜・真手浦の集落がある。山王山は古くは御岳と称され、また雄岳ともよばれる。古来より信仰の山で、最澄が航海の安全を祈願したあと再び訪れて山王神を勧請したと伝え、遣唐使は出航に際して山王権現に平安無事を祈願したという。渡海の船着場が今里と称されたと伝える(「山王権現縁起」荒川神社社記)。御船様とよばれる舟形石碑があり、航海の安全を祈願したものという。正平二年(一三四七、正平九年とも)の近藤定秀書状写(五島堺目旧記)に今里とみえ、南北朝期以降は青方氏と平戸松浦氏の相知行であり、塩竈が置かれていた。中世から近世にわたる板碑型石塔群がある。
今里村
いまざとむら
北は四ッ屋村・上氷鉋村、東は中氷鉋村・戸部村、南は今井村、西は小松原村に接し、内後、於下、阿弥陀堂、古森沢の集落がある。慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)には「千百四拾五石六斗九升七合 今里村」とある。
弘治二年(一五五六)一二月二四日、武田晴信(信玄)が西条治部少輔に対して「原・今里」の両地を宛行っているのが初見(西条文書)。なお、これについては永禄七年(一五六四)一二月一九日の武田信玄宛行状案には小田切氏対策のためそれを取りやめて、「原・今里所務之分」として高梨領之内から替地を宛行ったことがみえる(歴代古案)。
今里村
いまさとむら
[現在地名]八日市市小脇町
脇村の南西にあり、小脇郷西端に位置する。戦国期のものと推定される馬足子交名(今堀日吉神社文書)に「いまさと」のやまとの二郎三郎らの名がみえる。寛永石高帳に今里村二三九石余とみえる。享保三年(一七一八)惣山の割山に際して、今里村として二九人が署名していることから(「割山書留」今宿文書)、当時の家数は三〇軒前後と推測される。集落西側一帯は畑作地帯で、西ノ沢とよばれる悪水溜もある。
今里村
いまざとむら
[現在地名]美津島町今里
賀志村の南西にあり、浅海の西の深い入江に臨む。南に士富壇山、北に八斗蒔壇山がある。「津島紀略」では伊麻坐土と訓じる。賀志村と一村をなし、その新里で、塩焚きを生業とするので塩屋村と通称しているという(津島紀事)。中世以降は佐須郡のうちで、永享一二年(一四四〇)八月四日の宗貞盛宛行状(佐須郡判物帳)に「いまさと」とみえ、当地の山口伊豆入道由緒の畠が宗修理亮に給分として宛行われている。
今里村
いまざとむら
[現在地名]港区白金二丁目・同五―六丁目・白金台一―五丁目、品川区上大崎二丁目など
白金村の南東に続き、北は白金台町、東と南は上高輪町および上大崎村(現品川区)。荏原郡に所属。元禄八年(一六九五)織田越前守が検地を行った際に白金村から分れたとも、延宝三年(一六七五)に新たに開墾して別に一村としたともいう(風土記稿)。また白金村のうちともいわれ(再校江戸砂子)、両村は入会地も多く地域が入交じっているため境界の区別ができない(東京府志料)。
今里村
いまざとむら
関白村の東に位置する。北端部に羽黒山がそびえ、村の三分の二は山林地帯で、南部に平地が延び、東部を西鬼怒川が南流する。羽黒山の参道口として門前町を形成し、江戸期には藤原―宇都宮道における宿街を形成していた。枝郷に関白村・松田新田がある。宇都宮氏旧臣姓名書には今里村の笹沼長左衛門がみえる。同家は当村庄屋を勤め、酒造業も営んでいた。
今里村
いまざとむら
[現在地名]高松市今里町
福岡村の南、御坊川下流域東側の沖積地に位置する。当地一帯はかつては入江で、仮屋千軒といわれるほど賑ったという。寛永国絵図に村名がみえ、野原庄に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高三九五石余。明和六年(一七六九)の田畑順道帳(別所文書)では、古田が上所一七町二反余・二一〇石余、井手上四町七反余・四五石余、古畑が六町三反余・六〇石余、新開が上所二畝余・四斗余、井手上三反五畝余・三石五斗余、畑方九反五畝余・四石五斗余、合計は田方二二町三反余・二五九石余、畑方七町三反余・六五石余。
今里村
いまざとむら
[現在地名]大和村今里
志戸勘村の西に位置し、集落は海に臨む。沖に立神がある。「南島雑話」によれば、当村から宇検方(現宇検村)へ越える坂は難所であるという。屋喜内間切の大和浜方のうち。当地の中村家にはバシャ衣・ハブラ玉などのノロ祭具が伝有されている。正保琉球国絵図に村名の記載はないが、地先に小島が描かれ、「宮里立神」と記される。また集落の西手には「けん崎」とある。「大島私考」には大和浜方一二ヵ村のうちとして「今里村」とみえ、高二〇石余、うち享保内検後の開地は一斗余。文政三年(一八二〇)今里村で出火、蔵米が払底していたため間切横目格の三能温が自ら五石余を出して救米としたという(連官史)。明治初年と考えられる大和浜方村明細帳(和家文書)では高頭八八石余、田九町余・畠二町四反余・山野一八町三反余、貢米三七石余、砂糖五万五千四三四斤、人員五九〇人、現夫一二〇人・半現夫一六人。
今里村
いまざとむら
[現在地名]栗東町高野
土村の東、野洲川南岸平地に立地。江戸時代初期までは土村のうちに含まれていたが、元禄年間(一六八八―一七〇四)までに分離独立。元禄郷帳に村名がみえ高一四一石余、上野前橋藩領。以後幕末まで同藩領。享保一〇年(一七二五)石部宿(現甲賀郡石部町)に助郷高一四一石で出役(三大寺文書)。
今里村
いまざとむら
[現在地名]八千代町今里
鬼怒川湾曲部の右岸に位置。北は桐ヶ瀬村(現下妻市)。鬼怒川中流の乱流地帯に属し、平坦な沖積地水田地帯。近世までは鬼怒川西岸に沿って北上した「ゆふきみち」に沿って集落が形成されていたが、現在は南部を東西に走る国道一二五号沿いに新しい集落を形成。
鎌倉から室町時代には円福寺があり、小字名に大道下・東大道下・西大道下などが残るが、現在は下妻市に移されている。元弘二、三年(一三三二、三三)のものといわれる小山秀朝書状に「遍照寺領今里村内、清浄寿院敷地事、令旨召進候委曲併以参上可申候也、恐惶敬白」とあり、応永九年(一四〇二)の経巻奥書に「於大方郡今里円福寺書写了 吽栄」とみえる。
今里村
いまさとむら
[現在地名]海老名市今里
東は杉窪村、西は中新田村・社家村、南は上河内村、北は中新田村・下大谷村と接する。小田原衆所領役帳に高田左衛門「拾貫文 東郡今里」とある。近世は、初め幕府直轄領であったが、寛文年間(一六六一―七三)より元禄一四年(一七〇一)まで旗本町野領、宝永二年(一七〇五)以降旗本鈴木領となる。文政三年(一八二〇)二月の御尋ニ付申上候書付(藤沢市史二)によれば、藤沢宿への加助郷村に当村も指定されている。
今里村
いまざとむら
[現在地名]淀川区十三元今里一―二丁目・田川一―三丁目・塚本六丁目
西流する中津川の右岸にある。東の堀村を南進してきた中島大水道は当村東部の集落北で直角に折れ、中津川に沿って湾曲しながら西進し野里村(現西淀川区)北境に至る。鎌倉時代以降の賀島庄の地。
今里村
いまざとむら
[現在地名]裾野市今里
金沢村の北西に位置し、北西は下和田村、南は葛山村。天文八年(一五三九)四月一二日の葛山氏広後室朱印状(山田文書)に、木地師が挽物として槻の木を取る権利を有した「五ケ所之山」の一つとして「今里山」がみえる。江戸時代の領主の変遷は佐野村と同じ。寛永改高附帳では高八三石余(すべて畑方)。貞享三年(一六八六)の指出帳(今里区有文書)によると、高九三石余・反別一六町余で、屋敷地三反余以外すべて畑、ほかに野畑二町一反余があり、山役米は六斗を納めている。
今里村
いまざとむら
[現在地名]田原本町大字今里
鍵村の西北に所在。西大寺田園目録に「城下郡西郷十四条一里十坪一段西畔本二段半折也 字今里西浦」とある。慶長郷帳の村高は一〇〇・三一二石で御番衆領。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、のち二割半無地高増政策で村高一二五・三九石となる。和州御領郷鑑には享保九年(一七二四)の反別八町一反一畝二六歩、家数三五(本百姓三〇、水呑五)、人口一五八(男八三、女七四、僧一)で、細物売二とある。
今里村
いまざとむら
[現在地名]小山市今里
北から東は卒島村、南は上国府塚村、西は上初田村。文禄四年(一五九五)の榎本領二十四村惣高覚(大出善作文書)に「今里」とみえ、一六八石二斗余。慶長年間(一五九六―一六一五)小山藩領となり、元和五年(一六一九)下総古河藩領。正徳二年(一七一二)上知され、享保三年(一七一八)下総関宿藩領、同五年旗本久世広籌に分知される。慶安郷帳では田方二一八石余・畑方三七石余。元禄九年(一六九六)日光街道小山宿の定助郷となり、勤高二八九石(「小山宿助郷帳」大出善作文書)。
今里村
いまざとむら
[現在地名]大和高田市今里町の全域、および旭北町・旭南町・中今里町・南今里町の一部と大字今里
葛城川左岸、田井村の北に位置する。北方は伊勢街道(横大路)で、その街村となる。建久四年(一一九三)の磯野郷四至の中に「東限今里」(談山神社文書)、欠年の金峯山免田田数注進状(天理図書館保井文庫)の葛下郡二五条三里・四里に「今里」「今里在家」の地名がみえる。
江戸時代初期、新庄藩(桑山一晴)領。
今里村
いまざとむら
[現在地名]井波町今里
五領村の西、西大谷川右岸の小扇状地に立地。慶長八年(一六〇三)の中川宗重等連署裁許状(越中古文書)に村名がみえる。元和五年(一六一九)の家高新帳では役家数三、つほ野組に属した。正保郷帳では高二七六石余、田方一七町九反余・畑方五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二六八石・免五ツ七歩、小物成は山役二六七匁(三箇国高物成帳)。
今里村
いまざとむら
[現在地名]芦辺町諸吉 南触
諸吉村の東部にある。内海湾に臨む。正保国絵図に今里村と記される。「壱岐国続風土記」に諸吉村枝郷とみえ、「壱岐名勝図誌」では同村の里名の一つ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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