日本歴史地名大系 「今里村」の解説
今里村
いまざとむら
- 京都府:長岡京市
- 今里村
現長岡京市北部の平地部に位置する。南は
康永三年(一三四四)の寂照院仁王像胎内文書には、今里村は約一〇〇名が結縁する大きな村として登場する。源政賢・源頼泰と姓名をもつ者が二名、三郎殿と殿を称する者が一名、「男女七人」と名を記さない者もある。一方、尼妙円・源氏女など女性が三六名確認でき、他村に比べて多く、また三十三年忌と記す者二名、七年忌一名がある。寛正三年(一四六二)三月七日付堀内為頼名主職売渡状(革島文書)に「今里庄八幡領」とみえる。
享和三年(一八〇三)の村内書上帳によれば、惣村高一千二二七石は九五四石余の田高と一七二石余の畑屋敷高からなり、幕府領六〇石、禁裏増御料五〇石、伏見宮家二六九・四九五石、
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
北は
弘治二年(一五五六)一二月二四日、武田晴信(信玄)が西条治部少輔に対して「原・今里」の両地を宛行っているのが初見(西条文書)。なお、これについては永禄七年(一五六四)一二月一九日の武田信玄宛行状案には小田切氏対策のためそれを取りやめて、「原・今里所務之分」として高梨領之内から替地を宛行ったことがみえる(歴代古案)。
今里村
いまさとむら
- 滋賀県:八日市市
- 今里村
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
鎌倉から室町時代には
今里村
いまさとむら
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
- 奈良県:大和高田市
- 今里村
葛城川左岸、
江戸時代初期、新庄藩(桑山一晴)領。
今里村
いまざとむら
今里村
いまざとむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報