亀ヶ城跡(読み)かめがじようあと

日本歴史地名大系 「亀ヶ城跡」の解説

亀ヶ城跡
かめがじようあと

[現在地名]但東町太田 城山

西流する太田おおた川の右岸、太田集落背後(北側)の標高一六五―一七二メートルの丘陵にあり、丹後宮津から出石(現出石町)に抜ける街道(出石・宮津道)を押える要衝を占める。太田集落との比高は約九〇―八〇メートル、城域は東西約三〇〇メートル・南北約三〇〇メートルあり、大規模である。東西に延びる丘陵のほぼ中央鞍部に構築された堀切(幅一五メートル・深さ一〇メートル)を挟んで、東側の標高一六五メートルに位置するひがし城と西側の標高一七二メートルに位置する西にし城からなる。鎌倉時代但馬国守護であった太田氏による築城と伝える。

中央鞍部の堀切から東側に少し上ると虎口受けの曲輪があり、虎口を左右の土塁で固めた大規模な東城の主郭(東西約四〇メートル・南北約五五メートル)に至る。また主郭の西側にも坂虎口がある。主郭の背後(北側)には七―九メートルの幅広い土塁状の曲輪を設け、その北・北東斜面に三段の曲輪を構築している。さらにその二〇メートル下には北側から東側にかけて幅一一―二二メートルの帯曲輪が取巻いている。主郭前面(南側)には二つの尾根が延び、西尾根に七段の曲輪と大規模な竪堀(幅九・一メートル、深さ三メートル、長さ三七メートル)、東尾根に六段の曲輪と堀切・竪堀を構築。とくに東西の尾根先端の曲輪は一五×四九メートル、一七×三一メートルと規模が大きい。


亀ヶ城跡
かめがじようあと

[現在地名]出水市麓町

広瀬ひろせ川の左岸、出水平野の東側に臨む標高八二メートルを最高地点とするシラス台地の南西端に築かれた山城。出水城・和泉いずみ城・花見はなみヶ城ともいう。「薩隅日三州他家古城主来由記」は建久八年(一一九七)和泉郡(和泉庄)下司肝付系(伴姓)和泉兼保が築いた城とし、「三国名勝図会」は肝付系和泉氏一族の椙(杉)氏の居城とするが、鎌倉期から南北朝初期のことについては確認できない。その後守護島津氏一族の島津忠氏が当地の地頭として当城に入り、島津系和泉氏を称し直久の代まで居城としたと伝える。直久は応永二四年(一四一七)島津久豊に属して川辺松尾まつお(現川辺町)攻めに加わって討たれ、直久に子がなかったため忠氏の系統は絶えた(島津国史)


亀ヶ城跡
かめがじようあと

[現在地名]金峰町尾下

万之瀬まのせ川の支流さかい川に南を、ほり川に北を挟まれ、標高五五メートルを最高地点とする東西に延びたシラス台地の先端部を中心に築かれた山城。田布施たぶせ城・亀山かめやま城ともいう。長い間阿多北方あたきたかたの地頭二階堂氏と、南方の地頭鮫島氏が田布施をめぐり争ったが、応永二五年(一四一八)当地は守護島津領となった(島津国史)。守護島津忠国は永享四年(一四三二)生れの子友久に田布施を与えた。友久は直ちに当城を築きこれに拠り、島津相州家とよばれる分家となった。友久は文明八年(一四七六)守護島津忠昌の命で別府べつぷ(現加世田市)の薩州家島津国久を攻めたが勝てず、逆に国久と結んだため、忠昌は伊集院勢と伊作勢に当城を攻めさせた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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