亀井町(読み)かめいちよう

日本歴史地名大系 「亀井町」の解説

亀井町
かめいちよう

[現在地名]中央区日本橋小伝馬町にほんばしこでんまちよう

小伝馬上町の東にあり、東は馬喰ばくろ町一丁目、北は神田堀(竜閑川)、南は小伝馬町三丁目。東西に続く両側町と本銀町ほんしろがねちよう通北側の神田堀の河岸地で、浜町はまちよう堀対岸に東河岸が飛地になっており、さらに東河岸から東に続く片側町の二丁目がある。起立以前にはほぼ寺地であったが、天和二年(一六八二)の火災で類焼した弥勒みろく寺・雲光うんこう院が深川に移転、その跡地に起立された(東京府志料)。寛永江戸図では「よこ山かた丁」、明暦三年(一六五七)新添江戸之図は「ヨコ山丁」、元禄六年(一六九三)江戸図正方鑑では「カメイ丁」とある。


亀井町
かめいまち

[現在地名]高松市亀井町・鍛冶屋町かじやまち

北は南鍛冶屋町、南は町・天神前てんじんまえ武家屋敷、東は南新みなみしん町、西は浄願じようがん(現浄土宗)・修理様長屋。南北約二〇〇間・東西約六〇間の南北に細長い町人町。町名の由来は亀井(新井戸)があることによる。生駒氏時代、付近はまだ一面の田畠で、その中に稲田数十頃を灌漑する大きな甕のような甕泉かめいといわれる湧泉があった。のちに亀井の字をあてるようになり(讃岐国名勝図会)、正保元年(一六四四)松平頼重が高松城下の上水源としてこれを利用、その南西辺を亀井町とよぶようになった。


亀井町
かめいまち

[現在地名]姫路市亀井町

姫路城南の外曲輪に位置する町人町。東・西の紺屋こんや町の南にある東西の町筋。慶長六年(一六〇一)の町割で成立。初め小手屋こてや町といい北側の大工だいく町も含んでいた。町名は鎧具を作る工人が多かったことによるという(大正八年刊「姫路市史」)。慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図には「こてや町」と記され、別に大工町もみえる。


亀井町
かめいちよう

東山区大和大路通四条下ル二丁目

建仁寺町けんにんじまち通(大和大路やまとおおじ)に位置。南は団栗辻子どんぐりのずし。江戸時代初めは大和町などとともに建仁寺町と総称され、元禄期(一六八八―一七〇四)前後には同二町目にちようめの称があったことが当時の地図類により知られる。寛文五年(一六六五)刊「京雀」は建仁寺二町目として「此町西行に夷社あり」としているから、当初の二町目は団栗辻子以南のようであり、二町目の称にも推移があったと解される。

寛永一四年(一六三七)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)に「同(建仁寺北門前)南町」とあり、更に延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)に建仁寺門前町の一つとして「北門前下町」とみえるのが当町をさすとみるべく、また正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名家数改帳(同文書)には「建仁寺北門前南町」ともある。


亀井町
かめいちよう

[現在地名]東区平野ひらの町五丁目

善左衛門ぜんざえもん町の西にある両側町。淀屋橋よどやばし筋から渡辺わたなべ筋を経て七郎右衛門しちろうえもん町一丁目裏まで。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図によると、古くは淀屋橋筋から西へ平野町拾丁目・水溜町・藪田町と三町が並んでいたが、延宝七年(一六七九)平野町拾丁目の二屋敷、水溜町の三屋敷、藪田町の二屋敷が亀井町になった(安政三年「水帳」大阪市立中央図書館蔵)。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数七・役数一五役で、うち水溜屋敷分三役が無役。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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