二・二八事件(読み)ににはちじけん

百科事典マイペディア 「二・二八事件」の意味・わかりやすい解説

二・二八事件【ににはちじけん】

1947年,台湾で起こった住民による反中国国民党暴動。台湾現代史のうえで重要な意味を持つ事件とされている。1945年10月,台湾に進駐した陳儀ら国民党政権台湾接収委員は日本植民地当局から施政権を引き継いだ。当初,多くの台湾住民は祖国復帰を歓迎したが,本省人(第2次大戦前から台湾に居住していた漢族)が,省政府から排除されたり,日本資産の接収をめぐる不正が横行,また大陸出身の官吏兵士が無能で規律を遵守しないため,社会的混乱が発生した。さらにインフレが進行,本省人の不満は急激に増大した。47年2月27日台北市内でやみタバコ取締りをめぐる紛争が起こり,28日同市内で国民党軍がデモ隊に発砲,これをきっかけに,3月1日から主要都市で民衆官庁や警察を襲撃占拠,外省人(第2次大戦後,中国大陸から来た中国人)を殴打した。事態の収拾に向けて,知識人や地方名士からなる二・二八事件処理委員会が台湾各地に組織された。7日台北の同委員会は貪官汚吏の一掃,省自治の実施,政府各機関への本省人の登用などの改革を陳儀に要求した。しかし,3月8日中国大陸から援軍が来ると,陳儀は一転して二・二八事件処理委員会を不法団体として解散を命じ,増援部隊による無差別の殺戮で運動を押さえ込んだ。事件の犠牲者数は2万8000〜4万人と推定されている。事件は本省人と外省人の対立をはじめ深い傷痕を残し,台湾独立運動発生の契機ともなった。さらに二・二八事件に触れること自体がタブーとされた。1980年代後半の民主化のなかで,犠牲者への追悼と事件の真相究明を求める運動が生まれ,政府は1992年調査報告書を発表。1995年2月台北新公園(1996年,二・二八和平記念公園に改称)に二・二八事件記念碑が建てられ,李登輝総統が除幕式で公式な謝罪の意を間接的に表明した。4月〈二・二八補償及処理条例〉が立法院で可決,1996年から事件犠牲者遺族への保証金の支給が始まった。1997年には台北市二・二八記念館が開館した。→国民党台湾
→関連項目宜蘭

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二・二八事件」の意味・わかりやすい解説

二・二八事件
に・にはちじけん

1947年2月 28日中国,台湾で起った大陸人支配に対する台湾人の反乱事件。同年2月 27日夜台北市で,大陸人官憲の闇たばこ摘発隊が台湾人老婆を殴打,抗議に集った民衆に発砲して1名を死亡させ,翌 28日憤激して省行政長官兼警備総司令陳儀の公舎に向った台北市民デモ隊が機銃掃射を浴び,死傷者多数を出した。激怒した民衆は大陸人商店を焼き,放送局を占拠して全島民に決起を訴え,反乱は各地に広がった。3月4日には台湾人による秩序維持と食糧確保のための全島処理委員会が成立したが,大陸にあった蒋介石は8日夜から9日に増援軍を上陸させ,万余の台湾人指導者と民衆を殺傷して鎮圧した。この残虐な弾圧の結果,台湾人と政府側との間の溝は一層深まり,海外在住台湾人の間の台湾独立運動を生み出した。台湾では長らくタブーとされてきたが,近年その真相究明が公式に進められ,92年政府による事件報告書が公表された。報告書は当時の在台湾国民党トップの事件処理の誤りを認め,犠牲者に対し公式に遺憾の意を表明した。

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知恵蔵 「二・二八事件」の解説

二・二八事件

国民党支配下の台湾における、外省人と本省人(台湾人)との衝突によって生じた大規模な流血事件。民主化が進む李登輝(リー・トンホイ)体制下で真相究明のための再審査が行われ、1992年2月には膨大な調査報告書が作成されて李総統自ら遺族を弔った。47年2月27日、台北市内の夜市で、複数の警官がヤミたばこ密売の女性を横暴に摘発しようとして市民との間に混乱が生じ、警官の威嚇発砲が原因で1人の市民が死亡、これに抗議するデモが翌28日、台北、基隆を始め全国に拡大した。当時の行政長官・陳儀らは抗議に立ち上がった市民を徹底的に弾圧したため、2万人以上とされる死者が発生し、外省人、特に国民党指導層への台湾民衆の心理的反発は決定的となった。事件後45年にして台湾民衆の心理的な傷がいやされたことは、台湾の将来にとっても重要な展開といえる。

(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「二・二八事件」の解説

二・二八事件(に・にはちじけん)

1947年,台湾で発生した民衆と政府との衝突事件。中華民国復帰後の台湾では,省政府からの本省人(ほんしょうじん)排除や経済混乱のため本省人の不満は急増した。47年2月28日,ヤミ煙草取締事件への抗議デモに軍が発砲し,これをきっかけに暴動が発生,民衆は官庁や警察を占拠した。事態収拾のため地方名士らは,二・二八事件処理委員会を組織し,政治改革を要求したが,国府は増援部隊を台湾に派遣,無差別の殺戮で反乱を鎮圧した。犠牲者数は2万人前後と推定される。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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