1860年前後から義和団運動の前夜にかけて中国各地で発生したキリスト教排撃の運動=反洋教運動をいう。北京条約でキリスト教伝道が全面的に解禁されたあと,中国内地に進出したカトリック(天主教),プロテスタント諸派(基督教)は,いたるところで中国官民の敵意に遭遇し,宣教師殺傷,教会破壊,信者迫害などの教案(宗教関係の刑事事件のこと,清朝末期ではほとんどが仇教事件であった)が続発した。
当初は,列強の力をたのむ宣教師の行動が官僚や紳士の権威を侵害し,教会に庇護された信者が伝統秩序に挑戦したのにたいし,支配層の保守排外派が攘夷をあおって運動の先頭に立った。だが,そのつど砲艦が急派され,法外な賠償と関係者の厳罰が強要され,そのため官憲が保身のため逆に教会の保護につとめるようになったとき,かつては受動的に仇教に動員されていた民衆が,哥老会など秘密結社を中核とし,弾圧に抗して主動的に仇教の前面に立つようになり,攻撃の対象も教会に限られなくなった。1870年(同治9)の天津教案は教会の孤児院経営への疑惑(小児誘拐・虐待)に端を発し,フランス領事の発砲傷人事件が引金となって爆発したものであるが,当事者だったフランス系のカトリック教会だけでなく,英・米系の教会や領事館も焼かれ,商人をふくむ20人の外国人が殺された。清朝は同数の民衆の処刑を約束するなど屈辱的条件で解決したが,列強はむしろ教案の発生を利用し,侵略の歩を進めた。98年(光緒24),自国人宣教師の殺害事件を口実に膠州湾を占領・強借したドイツの例はその典型である。民衆が教会を憎悪したのは,それが外国侵略者の具体的表象だったからである。1890年代になると,新規の開港により列強の政治的・経済的侵略が激化した地域・時期に教案が集中的に発生するようになり,ついには義和団運動の爆発へとつながっていったのである。
執筆者:小野 信爾
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
清末,1860年天津条約の批准によってキリスト教の内地伝道が開始されてから,中国の各地で継続されたキリスト教排斥運動。清朝は雍正(ようせい)帝の即位以来キリスト教厳禁の方針をとっていたが,アヘン戦争後フランスの要求によって中国人のキリスト教信仰の自由を認め,58年天津条約で,外人宣教師の内地伝道を認めた。これ以前からフランスのカトリック宣教師は,四川,貴州,江西などに不法潜入して布教に従事し,数万の教徒を擁していた。布教の公認によって多数の宣教師が加わり,戦勝国の勢威を背景にして活動を開始したため,まずこれらの地方の地方官や郷紳(きょうしん)が教会を敵視し,彼らの指導する軍隊や武装した団練あるいは一般民衆によって,61~65年間に貴州省貴陽,江西省南昌,湖南省衡州(こうしゅう),四川省酉陽(ゆうよう)などで宣教師の殺害や駆逐,教徒の迫害事件があいついで起こった。一方,湖南から出たキリスト教排斥の文書が全国に流布されて,仇教運動を煽(あお)ったため,70年の天津教案,74~76年の四川各地の教会弾圧事件,86年の重慶の教会攻撃,91年の長江流域各地の教会攻撃,四川大足県を中心とする教会攻撃,98年に始まる山東の外国人および教会攻撃などのほか,全国各地で大小300件以上の迫害事件があいついだ。排斥の原因はキリスト教についての無理解にもあるが,根本は伝統文化へのこだわりであり,また外国の中国侵略に対する抵抗運動にほかならなかった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
主として19世紀の後半に中国で発生した反キリスト教運動をさす。中国では、この運動をも含めてすべてのキリスト教関係の事件を教案(きょうあん)とよんでいる。アヘン戦争(1840~42)後、清(しん)国はフランスの強硬な要求に負けて中国人の天主教(キリスト教)奉信を認めはしたが、これは信教の自由を公認するという高所から出た措置ではなかった。そのため、国民の間に厳然として存在した反キリスト教思想を十分に抑制することができなかったし、またヨーロッパ宣教師も、ややもすれば列強が新たに中国に獲得した地位を背景にして、横暴、無知な態度に出る者があったので、各地であらゆる種類の反キリスト教暴動が頻発した。暴動の口実として、教会が小児の肉体の一部を切り取って、これを薬用に供しているということがよくあげられたが、これは、教会が孤児院の経営にあまりにも力を入れたからであった。これらの事件のうちでとくに有名なのは、1856年の広西省におけるフランス宣教師殺害事件、65年と99年の四川(しせん)省における事件、68年のイギリス・プロテスタント宣教師襲撃の揚州教案、フランス領事をも殺した70年の天津(てんしん)教案、91年の揚子江(ようすこう)流域一帯の教案があり、99年から1900年にかけての義和団事件はその総決算ともいうべきものである。初期の仇教運動には一般的に反教会、反宣教師、反信者の傾向が濃いのに対して、1891年の事件あたりから、単なる反キリスト教の域を超えて、反列強、反帝国主義の運動に転化していることが認められる。
[矢澤利彦]
『矢澤利彦著『中国とキリスト教』(1972・近藤出版社)』
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…農村経済の破壊と農民の無産化,手工業者・小商人・運送労働者などの破産・失業が急速に進み,人民は重税雑税,労働徴発,災害に苦しんだ。 こうした背景の中で,山東では仇教(反キリスト教)運動が急激にひろがった。列強の勢力を背景に清朝の保護を受けつつ農村内部に入り込んだ教会が,中国人の土地を収奪し,帝国主義勢力の農村での経済活動の拠点となり,教民と一般農民の間に分裂をつくり,伝統的な農村の共同生活における人々の信仰や生活習慣の切り崩しにかかったためである。…
※「仇教運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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