桃山時代の豪商、茶匠。天王寺屋(てんのうじや)を屋号とする堺(さかい)の会合衆(えごうしゅう)の一人。『天王寺屋会記』を書き始めた宗達(そうたつ)の嫡子。通称助五郎、更幽斎と号す。堺南宗寺(なんしゅうじ)の大林宗套(だいりんそうとう)に参禅し、天信の道号を授けられている。貿易業を営んで四国や九州に大きく商圏を伸ばしていた天王寺屋一族の財力は、堺衆のなかでも屈指のものであったが、その基礎を築いたのは、宗及の祖父津田宗柏(そうはく)(1444―1527)であった。宗柏は古今伝授(こきんでんじゅ)を牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)、茶の湯を村田珠光(じゅこう)に学んだといわれる風流人で、武野紹鴎(たけのじょうおう)に先んじて茶の湯を愛好した堺衆の一人であった。嫡子の宗達(1504―66)は、44歳のとき、1548年(天文17)から茶会記を書き始めている。
宗達のあと天王寺屋の3代目を継いだ宗及は宗達や紹鴎に茶を学び、1566年(永禄9)から87年(天正15)にわたる千数百会の自会記と他会記を記録しているから、この時期が活躍の最盛期であろう。永禄(えいろく)初年には名物茶入(めいぶつちゃいれ)の切型(きりがた)をつくって鑑賞の助けにしたといわれ、桃山時代随一の目利きといわれる基礎をこのころから築いている。68年の織田信長入洛(にゅうらく)に際し、堺に課した2万貫に及ぶ矢銭(やせん)を受け入れるか否かで対立したとき、初め中立の立場をとっていたが、やがて信長に傾き、その茶道(頭)(さどう)に取り立てられている。また、豊臣(とよとみ)秀吉の天下統一後は、今井宗久(そうきゅう)、千利休(せんのりきゅう)とともに天下の三宗匠の一人として3000石を賜っている。87年、北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)に三宗匠の一人として点前(てまえ)を披露した。
[筒井紘一]
安土桃山時代の茶人。当時は〈そうぎゅう〉と呼ばれたらしい。千利休,今井宗久とともに天下三宗匠と称せられた。堺の会合衆(えごうしゆう)天王寺屋の惣領。父宗達の代に三好氏,本願寺に通じ,宗及に至って家業は発展した。しかし財閥特権商人としては今井宗久に圧せられ,茶匠としては千利休に一歩を譲る。初め隼人を称し,のち助五郎と名のるが,1566年(永禄9)より宗及と改称。更幽斎,天信と号す。また本願寺の門徒として法眼の称も得ている。宗及は父宗達より武野紹鷗の茶法を得て,和歌,連歌,挿花,聞香をよくし,道具類の目利きは当代随一といわれた。69年織田信長が堺に2万貫の矢銭を強要すると,時世の推移を見抜いた宗及は,一戦交えようとする強硬派を説得する穏健派にまわり,結局事なきを得た。やがて信長の茶頭(道)となって社会的地位を高め,信長没後は豊臣秀吉の茶頭となり,3000石を知行したという。有名な北野大茶湯では,利休とともに指導的役割を担った。宗達,宗及,宗凡3代にわたる《天王寺屋会記》は,《松屋会記》《今井宗久茶湯日記抜書》《宗湛日記》とともに四大茶会記といわれ,貴重な資料となっている。
執筆者:筒井 紘一
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(脇田修)
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?~1591.4.20
織豊期の堺の豪商・茶人。津田宗達の子。江月宗玩(こうげつそうがん)の父。屋号は天王寺屋。通称助五郎。父と同様に本願寺と関係が深かったが,1568年(永禄11)織田信長が堺に矢銭を課すと,信長と結ぶ道を選んだ。武野紹鴎(じょうおう)の弟子だった父から手ほどきをうけた茶の湯の技量と資力により,信長・豊臣秀吉に茶頭・政商として仕えた。今井宗久・千利休とともに三宗匠と称され,秀吉の北野大茶湯をつかさどった。武芸・蹴鞠(けまり)の道にも堪能で,参禅もした文化人。
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