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北条氏政 ほうじょう うじまさ

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美術人名辞典の解説

北条氏政

武将。小田原北条第四世。姓は平。氏康の男。号截流斎。相模の大守。父の封を襲ぎて従四位下左京大夫兼相模守に叙任す。軍国の間に処し常に武田氏と兵を構う。天正元年国務を嫡子氏直に譲り閉所に卜居して深く丹青を好み、狩野元信を師として山水花鳥を巧にする。才学ありて詠歌をよくし、尊鎮流の書に巧なり。天正18年(1590)歿、53才。

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デジタル大辞泉の解説

ほうじょう‐うじまさ〔ホウデウうぢまさ〕【北条氏政】

[1538~1590]戦国時代の武将。氏康の長男。武田信玄上杉謙信の攻防に連携・対抗しながら領土を確保した。晩年、豊臣秀吉小田原城を包囲され、敗れて自刃。

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百科事典マイペディアの解説

北条氏政【ほうじょううじまさ】

戦国時代の武将で,後北条氏の4代目。父は北条氏康。1554年相甲駿三国同盟の成立とともに,武田晴信武田信玄)の娘を正室として迎えた。1559年に氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に努めたが,豊臣秀吉による小田原征伐で数ヵ月の籠城の末に降伏して切腹,北条氏による関東支配を終結させる最期になった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北条氏政 ほうじょう-うじまさ

1538-1590 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)7年生まれ。北条氏康(うじやす)の長男。永禄(えいろく)2年,小田原城主北条氏4代となる。武田信玄,上杉謙信と同盟,交戦をくりかえし,北関東に勢力を拡大。天正(てんしょう)8年子の氏直(うじなお)に家督をゆずって後見役となる。18年豊臣秀吉に小田原城を攻囲され降伏。弟氏照(うじてる)とともに7月11日切腹。53歳。通称は新九郎。
【格言など】雨雲のおほへる月も胸の霧もはらひにけりな秋の夕風(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

北条氏政

没年:天正18.7.11(1590.8.10)
生年:天文7(1538)
戦国・安土桃山時代の武将。相模小田原城主。氏康と今川氏親の娘(瑞渓院)の子。通称新九郎左京大夫。隠居後は相模守,また 截流斎と号した。相甲駿(相模,甲斐,駿河)三国同盟成立後の天文23(1554)年12月,武田晴信(信玄)の娘(黄梅院)を妻とし,永禄2(1559)年12月に家督を継いだとみられる。翌3年の2月から3月にかけて,飢饉と疫病の流行に対処するため徳政を実施。また同年6月,貨幣法ともいうべき代物法度を改定して精銭と地悪銭の法定混合比率を7対3に確立した。同4年3月には長尾景虎(上杉輝虎,謙信)の小田原攻城を退け,これを契機に一向宗容認に転じた。同7年,第2次国府台合戦里見義弘を破り,7月には太田氏資の内応を得て岩槻城を手中に収めたことで,武蔵をほぼ征服した。 永禄11年12月,晴信が今川領国の駿河へ侵攻すると今川氏真支援のため出陣し,遠江懸川にも援軍を派遣した。この事件により上杉氏との講和交渉が促進され,翌12年閏5月には相越(相模,越後)同盟が成立。同年10月,晴信が小田原に来襲し,その帰途,三増峠で合戦を行う。元亀2(1571)年10月,父氏康が死に名実ともに当主の座に着くと,まもなく晴信との講和交渉を開始。同年12月に相甲(相模,甲斐)同盟が成立し,相越同盟は破れた。ところが天正6(1578)年,輝虎没後の上杉家に継嗣紛争が起きると,上杉景虎(氏政の弟で輝虎の養子)支持を巡って武田氏との間に不和が生じ,相甲同盟は破綻した。翌7年9月,徳川家康と結んで武田勝頼挟撃を約し,駿河黄瀬川に出陣。同8年8月再び勝頼と黄瀬川に対峙するが,その陣中で家督を子氏直に譲り引退した。これは従来の武田氏とのかかわりを捨て,改めて親織田,武田撃滅の姿勢を示したものとみられる。引退後は「御隠居様」などと敬称され,氏直の政務を助けた。その後,天下統一を進める豊臣秀吉の上洛要求にはついに応じず,天正18年の秀吉による小田原攻めに際し,最終的に籠城を決断したといわれる。降伏後,切腹を命じられ自刃。信長には恐怖し,秀吉は侮るという錯誤を犯したことにより滅亡を招いた人物といえよう。

(佐脇栄智)

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世界大百科事典 第2版の解説

ほうじょううじまさ【北条氏政】

1538‐90(天文7‐天正18)
戦国時代の武将。後北条氏第4代。氏康の子。母は今川氏親の娘。1554年(天文23)相甲駿三国同盟の成立とともに,武田晴信(信玄)の娘を正室として迎え,59年(永禄2)12月に家督を継ぐ。翌60年には飢饉と疫病の流行に対処するため徳政を行い,また代物法度を改定して精銭と地悪銭の法定比率を確立している。61年父氏康とともに長尾景虎(のち上杉輝虎,謙信)の来襲を退けたが,その後,氏康が輝虎と結んだため,晴信の来襲を受けたが撃退した。

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大辞林 第三版の解説

ほうじょううじまさ【北条氏政】

1538~1590) 戦国時代の武将。氏康の子。武田・佐竹氏らと戦い、東海地方にも勢力を伸ばした。豊臣秀吉の小田原攻略に際し、籠城の末降伏、弟氏照と共に自刃した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北条氏政
ほうじょううじまさ

[生]天文7(1538)
[没]天正18(1590).7.11. 小田原
戦国大名。後北条氏4代目。氏康の嫡子。母は今川氏親の娘。室は武田信玄の娘。法号は慈雲院松巌宗傑。永禄7 (1564) 年1月父氏康に従って安房の里見義弘を下総国府台に破ったのをはじめとして,7月には太田資正を武蔵岩槻城に攻め,同 12年1月上杉輝虎 (謙信) と和を結んで武田信玄と駿河で対戦した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北条氏政
ほうじょううじまさ
(1538―1590)

関東の戦国大名、後北条(ごほうじょう)氏第4代。氏康(うじやす)の子。母は今川氏親(うじちか)の娘。1559年(永禄2)家督を継ぐ。父とともに、上杉輝虎(てるとら)(謙信(けんしん))のたび重なる出兵を退けて領国を拡大した。68年末からは駿河(するが)に進出した武田信玄(しんげん)と戦い、これを討つため上杉氏との同盟締結に努力、69年に締結した。71年(元亀2)上杉氏との同盟を絶ち、ふたたび武田氏と和睦(わぼく)、ついで織田信長と結んで、関東の制圧を目ざした。80年(天正8)氏直(うじなお)に家督を譲ったのちも、実権を握って諸事を決した。豊臣(とよとみ)秀吉の上洛(じょうらく)命令に応じず、城の修築など軍備を強化し、決戦に臨んだ。90年、籠城(ろうじょう)策をとって秀吉の大軍を退けようとしたが、ついに降伏。弟の氏照(うじてる)とともに切腹を命じられ、7月11日小田原城(神奈川県小田原市)下で自刃した。[池上裕子]

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世界大百科事典内の北条氏政の言及

【小田原征伐】より

…1590年(天正18)豊臣秀吉が関東最大の戦国大名後北条氏を滅ぼして全国統一を完成させた戦い。九州征伐後秀吉は,北条氏政・氏直父子にも上洛を促したが,彼らは関東制覇の実績にもたれて秀吉の力を評価できず,上洛に応じなかった。1589年秀吉は,後北条氏の上野名胡桃(なくるみ)奪取を契機に,諸大名を動員し,後北条氏討伐を下令した。…

【後北条氏】より

…伊勢宗瑞(俗称北条早雲)を始祖とし,氏綱,氏康,氏政,氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名(図)。早雲はその出自など多くがなぞにつつまれた人物であるが,1476年(文明8)に義忠没後の今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。やがて駿河の興国寺城主となり,91年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。95年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い,関東進出の第一歩をしるした。…

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