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桶狭間の戦い おけはざまのたたかい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

桶狭間の戦い
おけはざまのたたかい

戦国時代,織田信長今川義元との,尾張国知多郡の桶狭間における戦い。駿河,遠江,三河3国を領有した今川義元は,永禄3 (1560) 年5月,4万と称する兵を率いて上洛を企て尾張へと進軍した。尾張国清洲城主織田信長は,砦を構えてこれに対したが,前衛の丸根,鷲津などの砦は同 19日までに陥落した。同 18日夜半,清洲を出発した信長は,19日正午頃,沓掛から進んで大高に通じる三面起伏の迫る低地 (→田楽狭間 ) に休憩していた義元の本陣を,約 3000人の兵をもって風雨のなかを急襲し,その首級をあげた。信長はこの勝利によって東海道における勢力を急速に増大させた。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

桶狭間の戦い

永禄3(1560)年、桶狭間に陣取った今川義元を織田信長が奇襲し破った戦い。軍勢は今川軍2万5千人、織田軍3千人程度だったと言われる。信長の天下統一への第一歩になった。

(2014-03-31 朝日新聞 夕刊 1総合)

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デジタル大辞泉の解説

おけはざま‐の‐たたかい〔をけはざま‐たたかひ〕【桶狭間の戦い】

永禄3年(1560)、織田信長の領内桶狭間に陣取った今川義元を、信長が奇襲して破った戦い。信長の天下統一の第一歩となった。

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大辞林 第三版の解説

おけはざまのたたかい【桶狭間の戦い】

1560年五月、尾張桶狭間(愛知県豊明市栄町)で織田信長が上洛途上の今川義元を奇襲して敗死させた戦い。信長の全国制覇の端緒となる。田楽狭間でんがくはざまの戦い。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

桶狭間の戦い
おけはざまのたたかい

1560年(永禄3)5月19日、尾張(おわり)桶狭間(愛知県豊明(とよあけ)市)における今川義元(いまがわよしもと)と織田信長の戦い。当時、駿河(するが)・遠江(とおとうみ)を本拠としつつ、三河を領国化した今川義元は、1552年(天文21)から1559年(永禄2)に、三河(みかわ)(とくに西三河)支配の徹底と領国の拡大を意図し尾張に侵入、沓掛(くつかけ)、鳴海(なるみ)、品野(しなの)、大高(おおだか)の諸城を拠点として、海岸沿いに勢力を築きつつあったが、永禄(えいろく)3年5月、駿・遠・三の2万5000余の兵力を動員し、大規模な侵入を図った。織田信長はこれに対し、丹下(たんげ)、中島(なかじま)、善照寺(ぜんしょうじ)、鷲津(わしづ)、丸根(まるね)に築砦(ちくさい)し防戦に備えたが、今川軍は鷲津・丸根砦(とりで)を落とし、同月19日、本陣を桶狭間のうちの田楽狭間(でんがくはざま)に移した。一方信長は19日払暁、「敦盛(あつもり)」を舞い、わずかの兵を率いて清洲(きよす)を出発、進軍中に先の2砦の陥落を知り、善照寺砦で兵力を結集させ(約3000という)、相原方面へ向かい太子ヶ根(たいしがね)を経て、今川軍に察知されることなく田楽狭間の今川本陣を急襲。義元は壮烈な戦死を遂げ、今川軍は敗走した。
 この一戦を契機として、今川氏は松平元康(まつだいらもとやす)(徳川家康)の三河岡崎城(おかざきじょう)への復帰を含め、徐々に領国を失っていくという滅亡への傾斜を開始し、信長は1562年、元康との同盟によって後顧の憂いをなくし西上作戦への専念が可能となった。なお、この戦いの原因については義元の上洛(じょうらく)説が一般的であるが、確証はない。したがって同説は後世の徳川中心史観に基づく作為の可能性がある。[久保田昌希]

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