1560年(永禄3)5月19日、尾張(おわり)桶狭間(愛知県豊明(とよあけ)市)における今川義元(いまがわよしもと)と織田信長の戦い。当時、駿河(するが)・遠江(とおとうみ)を本拠としつつ、三河を領国化した今川義元は、1552年(天文21)から1559年(永禄2)に、三河(みかわ)(とくに西三河)支配の徹底と領国の拡大を意図し尾張に侵入、沓掛(くつかけ)、鳴海(なるみ)、品野(しなの)、大高(おおだか)の諸城を拠点として、海岸沿いに勢力を築きつつあったが、永禄(えいろく)3年5月、駿・遠・三の2万5000余の兵力を動員し、大規模な侵入を図った。織田信長はこれに対し、丹下(たんげ)、中島(なかじま)、善照寺(ぜんしょうじ)、鷲津(わしづ)、丸根(まるね)に築砦(ちくさい)し防戦に備えたが、今川軍は鷲津・丸根砦(とりで)を落とし、同月19日、本陣を桶狭間のうちの田楽狭間(でんがくはざま)に移した。一方信長は19日払暁、「敦盛(あつもり)」を舞い、わずかの兵を率いて清洲(きよす)を出発、進軍中に先の2砦の陥落を知り、善照寺砦で兵力を結集させ(約3000という)、相原方面へ向かい太子ヶ根(たいしがね)を経て、今川軍に察知されることなく田楽狭間の今川本陣を急襲。義元は壮烈な戦死を遂げ、今川軍は敗走した。
この一戦を契機として、今川氏は松平元康(まつだいらもとやす)(徳川家康)の三河岡崎城(おかざきじょう)への復帰を含め、徐々に領国を失っていくという滅亡への傾斜を開始し、信長は1562年、元康との同盟によって後顧の憂いをなくし西上作戦への専念が可能となった。なお、この戦いの原因については義元の上洛(じょうらく)説が一般的であるが、確証はない。したがって同説は後世の徳川中心史観に基づく作為の可能性がある。
[久保田昌希]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加