日本大百科全書(ニッポニカ) 「今治藩」の意味・わかりやすい解説
今治藩
いまばりはん
伊予国(愛媛県)のほぼ中央部、今治を中心に越智(おち)郡とその島嶼(とうしょ)部の大部分を領有した藩。1587年(天正15)福島正則(まさのり)が温泉(おんせん)郡湯築(ゆづき)城主11万石に封ぜられ、やがて越智郡国分(こくぶ)(国府)城に移った。8年ののち池田秀雄、ついで小川祐忠(すけただ)が継承したが、関ヶ原の戦いに西軍に参加して改易された。1600年(慶長5)藤堂高虎(とうどうたかとら)(伊予板島(いたじま)7万石)が関ヶ原の戦功により20万石に加増されるや、国分城に入った。高虎はこの地を近世都市に不適とし、近接する今張(いまはり)浦が交通の要衝であることを見抜いた。1602年海水を利用した斬新(ざんしん)な築城工事に着手し、やがて今治の城下町が成立した。1608年、高虎は伊勢(いせ)の津に転封、養子高吉(たかよし)が今治城2万石を領有すること28年に及んだ。1635年(寛永12)伊勢長島城主松平(久松(ひさまつ))定房(さだふさ)が今治3万石に封ぜられた。その領域は越智郡の地方(じかた)2万2600余石、島方3800余石、合計68か村。3代定陳(さだのぶ)のとき石高3万5000石となり、彼は江島為信(ためのぶ)を重用して、法制・軍制を整備し、塩田を開発。1698年(元禄11)関東の領地5000石の替地として宇摩(うま)郡18村が与えられた。4代定基(さだもと)、5代定郷(さださと)は総社(そうじゃ)川の大改修、6代定休(さだやす)、7代定剛(さだよし)は貯水池の築造を断行し生産を増大させた。ついで藩校克明館を創立。また木綿織が発達し、重要な国産となった。10代定法(さだのり)は洋式兵制を採用、海岸に砲台を構築。のち朝廷に接近、戊辰(ぼしん)戦争に功績をあげた。廃藩置県により今治県となり、やがて松山県、さらに愛媛県に統合された。
[景浦 勉]
『戸塚政興著『今治夜話』(1981・伊予史談会)』▽『『物語藩史 10』(1976・新人物往来社)』▽『『今治市誌』(1943・今治市)』