今治(読み)イマバリ

デジタル大辞泉 「今治」の意味・読み・例文・類語

いまばり【今治】

愛媛県北部の市。近世は藤堂氏、次いで松平氏城下町今治港は商業港。農業などのほか特にタオル製造業が盛ん。人口16.7万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「今治」の意味・わかりやすい解説

今治[市] (いまばり)

愛媛県北端,高縄半島と大三島(おおみしま),伯方島(はかたじま)など芸予諸島の一部を含む市。2005年1月旧今治市と大西(おおにし),大三島,上浦(かみうら),菊間(きくま),玉川(たまがわ),波方(なみかた),伯方,宮窪(みやくぼ),吉海(よしうみ)の9町,朝倉(あさくら),関前(せきぜん)の2村とが合体して成立した。人口16万6532(2010)。

今治市南東端の旧村,北は旧今治市に接する,旧越智(おち)郡所属。人口5008(2000)。高縄半島の東部に位置し,三方を山に囲まれ,頓田(とんだ)川に沿って今治平野南端の低地が開ける。古代は《和名抄》に記された朝倉郷の地で,名神大社多伎神社があり,応永年間(1394-1428)に当地を支配した河野氏が社殿を造営している。基幹産業は農業で,米作のほかミカン,梨の果樹栽培,キュウリ,トマトの施設園芸が行われる。旧今治市に隣接する北東部の下朝倉地区では都市化が進み,同市への通勤者も多い。南東端の笠松山は前方に燧(ひうち)灘,後方に石鎚山系を展望できる景勝の地で,瀬戸内海国立公園に含まれる。笠松山山麓や多伎神社の境内には七間塚古墳をはじめとする古墳群がある。
執筆者:

今治市中部,高縄半島の東部にある旧市。1920年市制。人口11万7930(2000)。東部は瀬戸内海の燧灘に,天然の良港波止浜(はしはま)のある北部は,来島(くるしま),小島,馬島などが点在する潮流の激しい来島海峡に面する。今治は今張とも記され,伊予国で最も早く開けた。古代以来,瀬戸内海航路の要地で,国分古墳はじめ古墳も多い。伊予国府は南郊の富田に,また国分寺が国分に置かれ,近世初期まで桜井地区が当地の中心であった。1600年(慶長5)領主となった藤堂高虎は桜井の国府城に入ったが,02年から砂州を埋め,三重の堀をうがって海水を引き,現在地に今張城を築いた(石垣と内堀のみ残す)。芸予諸島の南西部を含む東伊予の政治・経済の中心地として位置してきたが,江戸時代中期に興った木綿産業を基盤に明治末からはタオル生産がさかんとなり,今日では全国一の生産地となった。また波止浜(はしはま)では,近年造船業が成長して一方の基幹産業となっている。JR予讃線が通り,本州四国連絡橋今治~尾道ルート(西瀬戸自動車道)が1999年開通した。
執筆者:

伊予国の城下町,瀬戸内海交通上の要地。1600年(慶長5)藤堂高虎(20万石)が領主となり,02年から今張城を築城した。城下町は翌年から着工され,城外の東町に組屋敷,町方は本町,風早町,中浜町,室屋町,片原町,米屋町,塩屋町,鍛冶屋町の8町に町割りされ,国田屋,蛭子屋などの豪商も誘致された。町方には大年寄,町年寄,五人組が置かれた。町方の北方には寺町が設けられた。08年高虎の転封後,その養子高吉が2万石で35年(寛永12)まで在城した。同年,松山藩主松平(久松)定行の弟定房が3万石を領し,慶安年間(1648-52)に今治と改めた。1636年の戸数989,人口3892である。幕末までに新町,北新町,船頭町,住吉町などが形成された。今治藩は島嶼部で塩田を開発して塩専売制を実施し,享保年間(1716-36)には商人柳瀬義達が白木綿を製造し,幕末には30万反にも達した。
執筆者:

今治市にある旧町。東は旧今治市に接する。旧越智郡所属。人口8802(2000)。高縄半島の北西部に位置し,斎(いつき)灘に臨む。半島の中心にある山地の支脈が南部を占め,北東部に低地が開ける。中心集落の新町は今治街道に沿い,江戸時代は馬継ぎ駅で,街村をなし,短冊形の町割を残す。町中央にある大庄屋井手家の屋敷は1975年まで町役場として使われた。造船業とかんきつ類の栽培,畜産が基幹産業で,海岸には新来島どっくの大西工場があり,松山刑務所大井造船作業場が併設されている。JR予讃線,国道196号線が通じる。
執筆者:

今治市にある旧町。旧越智郡所属。1955年鏡・宮浦両村が合体,町制,改称。人口4232(2000)。芸予諸島中最大の島である大三島の西半を占める。鷲ヶ頭(わしがとう)山(437m)を主峰とする脊梁山脈が南北に連なり,平地は小河川流域に点在する。中心の宮浦は古くから瀬戸内海交通の要衝として開け,近世には大山祇(おおやまづみ)神社門前町として発展した。産業の中心はかんきつ栽培で,果樹園は耕地総面積の大部分を占める。漁業は真珠,カキ,クルマエビなどの養殖を主とする。

今治市にある旧町。旧越智郡所属。人口3606(2000)。瀬戸内海中央部,芸予諸島の大三島東部に位置する。北部の鳥取岬は県の最北端で,対岸の広島県三原市へは3.2kmである。山がちではあるが,井口周辺と海岸線に沿って平たん地がある。南東部の伯方島との間の鼻栗瀬戸には,1979年本四連絡橋尾道~今治ルートの大三島橋(328m)が開通しており,東部の広島県生口(いくち)島との間に建設された多々羅大橋を含む同ルートの早期全通が期待されている。古くから内海交通の要衝として栄え,とくに中世の村上水軍との関係が深く,古城島にある甘崎城跡はその居城であった。向雲寺境内の甘藷(いも)地蔵は江戸時代,この地にカンショを普及させた下見吉十郎をまつったものである。愛媛ミカンの代表的産地で,近年イヨカン,ハッサクなどへの品種更改が行われている。
執筆者:

今治市西端の旧町。旧越智郡所属。人口7651(2000)。高縄半島の北西部に位置し,北は斎灘に臨む。中世には菊万(きくま)荘,佐方保があった。弘安年間(1278-88)の発祥といわれる菊間瓦の産地で,松山藩時代に窯元を27株に制限して質の低下を防いだ。皇居,京都御所,松山城にも使用され,伝統産業として今日も盛んに生産される。中心集落の浜はかつての今治街道の宿場町であった。第2次世界大戦後,葉山海岸に石油精製所ができ,規模を拡大している。米作を中心に畜産,かんきつ類の栽培が行われ,特に機械化されたかんきつ類の栽培は菊間方式として有名。加茂神社ではお供馬行事が行われる。JR予讃線,国道196号線が海岸線に沿って通る。

今治市にある旧村。旧越智郡所属。人口865(2000)。瀬戸内海の芸予諸島に属する岡村島,大下(おおげ)島,小大下(こおおげ)島の3島からなり,北および西に広島県大崎上島・下島が隣接する。3島とも低地に乏しく,おおむね花コウ岩からなり,ところどころに石灰岩層が露出する。農漁業を中心とし,特にミカン栽培が盛んである。東予における愛媛ミカンの先進地で,県下三大産地の一つである。漁業はハマチ,ノリの養殖が中心。小大下島では1823年(文政6)ころより石灰石を採掘,第2次大戦後も大手企業数社による採掘が行われて島は原形をとどめないほどに変わった。岡村島の姫小嶋神社で毎年2月11日に弓祈禱(ゆぎとう)の神事が行われる。景勝の観音崎などがあり,瀬戸内海国立公園に含まれる。

今治市南端の旧町。北東は旧今治市に接する。旧越智郡所属。人口6072(2000)。高縄半島の中央部に位置し,町域中央を北流する蒼社(そうじや)川沿いにわずかに平地がひらけ,南には楢原(ならばら)山(1042m)などがそびえる。楢原山の奥,東三方ヶ森(1233m)に発して蒼社川に注ぐ木地川流域には,鎌倉初期に伊勢神宮領玉河御厨が置かれた。木地川,蒼社川沿いにはかつての木地屋集落がある。農林業を主とするが,蒼社川の渓流に沿う鈍川(にぶかわ)温泉を中心に今治市背後の観光地として発展した。楢原山一帯には南朝の長慶天皇の遷幸伝説が残り,山頂には同天皇などをまつる奈良原神社がある。同社は江戸中期以降牛馬の守護神としてひろく崇敬され,県内各地に分祀されている。境内には奈良原山経塚遺跡(史)があり,平安末期の銅宝塔をはじめ出土品は国宝。神社への旧参道には桜が多く,千疋峠の桜は〈千疋桜〉として国の名勝。八幡(やわた)に四国八十八ヵ所57番札所の栄福寺,別所の佐礼山山頂近くに58番札所の仙遊寺がある。

今治市にある旧町。南東は旧今治市に接する。旧越智郡所属。人口9960(2000)。かつては〈はがた〉と読んだが,1960年町制施行に際して改称。高縄半島の北端に位置し,来島(くるしま)海峡,関前灘,斎灘と,三方を海に囲まれ,北に大角ノ鼻(おおすみのはな),西に宮崎半島が突出する。波方港沖から縄文後期の注口土器が発見されており,海岸部にも縄文時代の水崎遺跡がある。中世,この一帯は水軍を擁して活躍した来島氏の根拠地であった。現在も海運業が盛んで,造船所があり,造船工業団地も造成されている。タオル工場も立地する。農業はミカン栽培が主で,斎灘に面した小部では沿岸漁業も行われる。南部を予讃線が通じ,波方港と広島県竹原市との間にはフェリーが通う。町域の一部は瀬戸内海国立公園に含まれ,宮崎半島先端の梶取ノ鼻は景勝地として知られる。
執筆者:

今治市にある島。瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島中の島で,一島で旧越智郡の伯方町を形成。人口8031(2000)。南は宮窪瀬戸を挟んで大島と,西は鼻栗瀬戸を挟んで大三島と相対する。多くの岬が張り出し,木浦(きのうら),有津(あろうづ),熊口(くまご)などの良港がある。周辺の海底からは多数のナウマンゾウの化石が引き上げられている。中央にそびえる宝股(ほこ)山(304m)は山頂に巨石がまつられ,近世以降は石鎚山の遥拝所となっていた。島内には村上水軍の城砦跡なども残る。江戸時代は今治藩領で,江戸後期には藩によって木浦の瀬戸浜と古江浜に塩田が開かれ,のちに拡張されて繁栄,昭和40年代半ばまで製塩業が続けられた。海運業,造船業が盛んで,かんきつ類の栽培も行われる。越智郡島嶼(とうしよ)部の行政・文化・交通の中心で,本州四国連絡橋今治~尾道の架橋ルートの拠点であり,国道317号線が通る。西の大三島とは大三島大橋,南の大島とは伯方島大橋によって結ばれる。宝股山など島の一部は瀬戸内海国立公園に含まれる。
執筆者:

今治市にある旧町。旧越智郡所属。今治市北東にある大島の東半分と,沿岸の見近島,鵜島,能(の)島,九十九(つくも)島などのほか,南東約10kmの燧灘にあり,住友金属の製錬所が置かれた四阪島からなる。人口3671(2000)。旧吉海町との境にある念仏山(382m)を最高峰とする急峻な地形で,集落は海岸部に立地。平安時代末期,大島には醍醐寺領大島荘が置かれ,町域はその〈甘原方〉であった。南北朝~室町期には小早川氏が地頭職を有している。北の伯方島との間の海峡に位置する能島は,中世,村上水軍の根拠地で,属島の鯛崎島にまたがって能島城跡(史)がある。産業は農業,石材業,漁業が中心で,急傾斜地にはミカン園が広がる。念仏山付近は大島石の名で知られる花コウ岩(青御影)の採石場が多く,余所国(よそくに)の沿岸には加工場や石材店が軒を連ねる。好漁場に恵まれ,タイ,スズキなどの漁獲が多く,特産の瀬戸貝は京阪神市場に出荷される。かつては杜氏(とうじ)や行商の出稼ぎが盛んであった。友浦の善福寺には鎌倉時代の宝篋印塔(ほうきよういんとう)(重要文化財)がある。町域の一部は瀬戸内海国立公園に含まれる。

今治市にある旧町。旧越智郡所属。今治市の北東に浮かぶ大島の西半分と津島,大突間(おおづくま)島,武志(むし)島,中渡(なかと)島などからなる。人口4799(2000)。念仏山(382m),八幡(やわた)山(215m),亀老(きろう)山(308m)などの山地が大部分を占める。八幡山山頂近くには巨岩の天狗岩があり,付近からは弥生時代の土器などが出土する。平安時代末期,大島には醍醐寺領大島荘が置かれ,町域はその〈吉浦方〉であった。中世には村上水軍の根拠地で,亀老山の隈ヶ岳城をはじめ多数の城跡があり,亀老山麓の高竜寺は南朝方として活躍した村上義弘の菩提寺とされる。津倉湾奥の幸(さいわい)新田は1697年(元禄10)に完成した干拓地で,島内の穀倉地帯であり,現在は町の中心地となっている。産業は,ミカン,野菜の栽培を主とする農業,一本釣りと網漁による漁業,念仏山や津島での石材業がある。下田水(しただみ)からのフェリーで結ばれる今治市の商圏に含まれ,通勤・通学者も多い。なお,大島には四国八十八ヵ所を模した〈島四国〉霊場があり,春の霊場巡りの季節には訪れる人も多く,湯茶の接待や宿をかす善根宿(ぜんこんやど)の風習を今も残している。
執筆者:

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世界大百科事典(旧版)内の今治の言及

【愛媛[県]】より

…県域は北東~南西に長く,北は瀬戸内海,西は豊後水道に面する。
[沿革]
 愛媛県の範囲はかつての伊予一国からなり,近世には宇和島藩,吉田藩,大洲藩,新谷(にいや)藩,松山藩,今治藩,西条藩,小松藩の8藩と天領(松山藩預所)に分かれていた。明治維新後,旧天領は倉敷県ついで丸亀県に編入され,廃藩置県を経て宇和島,吉田,大洲,新谷の4県は宇和島県(のち神山県)に,松山,今治,西条,小松の4県と天領は松山県(のち石鉄(せきてつ)県)に合併した。…

※「今治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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