伊豆金山(読み)いずきんざん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊豆金山」の意味・わかりやすい解説

伊豆金山
いずきんざん

16世紀末から17世紀初期に繁栄した伊豆国の金銀山の総称。諸山のうち土肥(とい)(静岡県伊豆市)と縄地(なわじ)(賀茂(かも)郡河津(かわづ)町)がもっとも盛大であり、ほかに湯ヶ島(伊豆市)、瓜生野(うりゅうの)(伊豆市)などの金山があった。土肥は1577年(天正5)ころから採掘が始まり伊豆金山ではいちばん古く、50年にわたり繁栄した。とくに1606年(慶長11)に代官頭彦坂元正(ひこさかもとまさ)にかわって大久保長安(ながやす)が管轄してから活況を呈し、遊女町など「土肥千軒」といわれたほど繁盛した。縄地は慶長大判・小判の地金産地として繁栄し、最盛期には戸数が8000軒もあったという。瓜生野は大仁(おおひと)鉱山の一部で、湯ヶ島と同じく慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に開発された。伊豆金山の開発には諸国から金掘りが集まったが、栄えたのはきわめて短期間であり、1607年(慶長12)に早くも大久保長安が縄地の山神や白浜の伊古奈比咩(いこなひめ)神社へ金山の繁盛と復興を祈願して奉納した鰐口(わにぐち)が現存している。毛倉野(けぐらの)や青野(賀茂郡南伊豆町)は元禄(げんろく)・宝永(ほうえい)年間(1688~1711)に始まり、金や銅を産して天明(てんめい)年間(1781~89)に隆盛となったが、まもなく衰退した。土肥は明治以降に本格的に再掘されたが、1965年(昭和40)に閉山。縄地も大正以降に稼業されたが、71年に同じく閉山した。

[村上 直]

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改訂新版 世界大百科事典 「伊豆金山」の意味・わかりやすい解説

伊豆金山 (いずきんざん)

静岡県伊豆地方に散在した金銀山の総称。16世紀後半から17世紀初頭にかけて繁栄した。初期の金生産は,多く砂金を原料としていたが,16世紀末になると山金採鉱が行われるようになり,伊豆金山は甲州金山と並んで,採鉱技術発展の発祥の地となった。中でも,土肥金山はその中心としての位置を占め,1577年(天正5)と伝えられる開坑以来,50年にわたって盛んに稼行した。この間,幕府は大久保長安を金山総奉行として経営に当たらせた。17世紀半ばに至って急速に衰山,休山したが,1906年,谷川銈五郎が経営し復活,現在も中外鉱業が稼行している。伊豆金山は,この土肥金山のほかに,縄地,修善寺,毛倉野,甘金山,青野,大仁などの鉱山よりなっている。
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百科事典マイペディア 「伊豆金山」の意味・わかりやすい解説

伊豆金山【いずきんざん】

静岡県伊豆地方に散在した金銀山の総称。16世紀後半から17世紀初頭にかけて繁栄。伊豆市の土肥金山,河津町から下田市にかけての縄地(なわじ)金山,南伊豆町の毛倉野金山,青野金山などから成る。このうち中心的位置を占める土肥金山は1577年開削と伝えられ,50年にわたってさかんに操業。江戸幕府は大久保長安を金山総奉行として経営にあたらせた。かつての金山は多くが砂金を原料としていたが,16世紀末ころになると甲州金山とともに伊豆金山では山金採鉱が行われるようになり,採鉱技術発祥の地ともいうべき存在となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊豆金山」の解説

伊豆金山
いずきんざん

静岡県伊豆地方に散在した金銀山の総称。主要鉱山の土肥(とい)金山は1577年(天正5)発見,50年にわたって稼行した。縄地金山(河津町)は文禄・慶長期頃から稼行し,ほかに修善寺・瓜生野(うりゅうの)・毛倉野(けぐらの)・青野などの金山がある。最盛期は1606~07年(慶長11~12)のごく短期だったが当時佐渡金銀山に匹敵し,佐渡奉行の大久保長安が代官を兼務した。明治期に稼行が再開され,土肥・清越(せいごし)・持越(もちごし)・大仁(おおひと)・河津・縄地などの諸鉱山があったが,1987年(昭和62)までにすべて閉山。

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