伏見宿(読み)ふしみじゆく

日本歴史地名大系 「伏見宿」の解説

伏見宿
ふしみじゆく

江戸時代の東海道宿駅の一つ。大津おおつ宿(現大津市)よど宿の間にある。東海道宿村大概帳

<資料は省略されています>

とあり、江戸・伏見間の距離、宿の規模などが知られる。

古来、東海道は大津から山科日やましなひおか(現山科区)を越えて粟田口あわたぐち(現東山区)三条大橋に達するのが経路であったが、江戸幕府参勤交代等で江戸と国元を往還する西国大名が京に入って朝廷と接することをきらったので、諸大名は大津・伏見・淀という道筋を通ることがならわしとなり、しだいに東海道として公認のものとなっていた。江戸幕府道中奉行作成の東海道分間見取延絵図にも両様の道筋が記される。なお、大津・伏見間を大津街道と通称した。

当宿の宿建人馬は「百人百疋」で、そのうち五人五疋は定囲、二五人一五疋は臨時御用囲の決りであった(東海道宿村大概帳)会所京橋きようばし近くの南浜みなみはまの通称馬借前ばしやくまえと、六地蔵札ろくじぞうふだつじの二ヵ所に分れており、「伏見鑑」などには、南浜六七人六七疋、六地蔵が三三人三三疋ずつであったと記されるが、東海道宿村大概帳では「人馬継問屋場弐ケ所」は撞木しゆもく町と六地蔵札の辻で、「六地蔵問屋場之儀は、大和口と相唱へ、大津より南都之方継合候脇道ニて、宿役弐拾五人・弐拾五疋之場所ニ候得共、平日継立之儀は、毎月朔日より十二迄伏見ニて相勤、十三日より廿一日迄は六地蔵ニて相勤、廿二日より晦日迄伏見ニて相勤来」と、日数割による継立が行われるとしている。


伏見宿
ふしみしゆく

[現在地名]御嵩町伏見

東の御嵩宿から一里、西の太田おおた宿(現美濃加茂市)へ二里の所に設けられた中山道の宿駅。慶長七年(一六〇二)駄賃(野呂文書)では御嵩宿より伏見までの駄賃が荷物一駄四〇貫目につき永楽五文と定められ、元和二年(一六一六)にはびた銭一七文に(「駄賃定」同文書)、寛永二〇年(一六四三)には一駄二七文・から尻一八文に増額されている(「駄賃定」同文書)。御嵩宿同様慶長七年から伝馬宿としての役目を果していたと考えられ、明暦覚書にも中山道御伝馬所で公儀判形の制札を有すると記される。一方「尾張地方古義」には寛永一七年中山道の助郷についての申渡しが出された際の書類には、土田どた宿(現可児市)はみえるが伏見宿はみえないとされ、当宿は元禄七年(一六九四)以降一宿立てとなって土田宿助郷村が付けられたとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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