余地峠(読み)よじとうげ

日本歴史地名大系 「余地峠」の解説

余地峠
よじとうげ

佐久町余地と群馬県甘楽かんら南牧なんもく熊倉くまくらを結ぶ峠。分水界で長野県・群馬県の県境をなす。標高一二六九メートル。近世には佐久郡南部から上州南牧谷なんもくだにへ米穀類等の物資を交流する道筋にあたる。

佐久側から余地峠に至る道筋は二つある。高野町たかのまち村、上畑かみはた村・崎田さきだ村(現八千穂やちほ村)等の方面から海瀬かいぜ村を経て、余地川をさかのぼるものと、臼田うすだ(現臼田町)方面から入沢いりさわ(現臼田町)を経て谷川に沿ってさかのぼり、児落場峠を越えて、余地村中谷の上方で余地からの道に合一するものである。群馬県側へは急な下りになり、旧道がそのままにいまも利用されている。道ばたの観世音碑に「天明三年癸卯秋除橡窪之険新開地路矣」の銘がある。

余地峠
よじとうげ

南牧道と甲州道を結ぶ峠。上信国境に位置する。標高一二六九メートル。上州側からは熊倉くまくらを経て峠を越え信州高野たかの(現長野県南佐久郡佐久町)へ出て甲州に通じ、近世には信州佐久さく郡南部から南牧谷への米穀類などの物資交流の道筋にあたる。「関八州古戦録」によれば永禄三年(一五六〇)九月下旬、武田信玄が一万余騎を率いて「信州余地峠ヨリ西上野碓氷郡下仁田越シテ松井田、安中ノ間ニ着陣」、また天正一〇年(一五八二)四月五日に甲府を立った滝川一益は五千余騎を引率して「余地峠ヨリ熊倉ヘ出」上州へ打越したとある。「甲陽軍鑑」には永禄六年二月甲府を出発した武田信玄は四万六千余の軍勢を率いて「よじ峠、南目を越えて」とあり、「武田三代記」には同年二月一三日甲府を立ち上州に向かった信玄は「依路を越え南目に着陣」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「余地峠」の意味・わかりやすい解説

余地峠
よちとうげ

群馬県南西部,南牧村と長野県佐久穂町の境にある峠。標高 1268m。鏑川河谷佐久盆地を結ぶ要路として,古くから物資が流通し,戦国時代武田信玄の軍勢が信州から上州に攻め入ったとき,この峠を通った。江戸時代にも物資輸送路として利用され,群馬県側の砥沢には明治2 (1869) 年まで南牧の関所が置かれた。

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