諏訪氏(読み)すわうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「諏訪氏」の意味・わかりやすい解説

諏訪氏
すわうじ

信濃国(しなののくに)高島藩主。建御名方(たけみなかた)神の子孫桓武天皇(かんむてんのう)の子孫、清和源氏(せいわげんじ)の末など諸説がある。神氏(みわうじ)(諏訪氏)を称し、諏訪上社大祝(おおほうり)となる。鎌倉時代、北条得宗(ほうじょうとくそう)の御内人(みうちびと)となり、神党(信濃の武士団)の中心となった。北条氏滅亡後、中先代(なかせんだい)の乱(1335)の中心となる。室町時代、諏訪下社大祝金刺(かなざし)氏を倒し、諏訪郡一円を領した。1542年(天文11)武田晴信(たけだはるのぶ)(武田信玄(しんげん))に滅ぼされたが、本能寺の変後、一族諏訪頼忠(よりただ)が旧領を回復し、徳川家康に属した。1590年(天正18)家康の移封に伴い武蔵国(むさしのくに)に移り、のち上野国(こうずけのくに)に移った。1601年(慶長6)頼忠の子頼水(よりみず)が諏訪に帰り、2万7000石を領した。大坂の陣の功により5000石加増されたが、1657年(明暦3)2000石を2家に分知、3万石を継承した。分家に諏訪上社大祝諏方(すわ)家と、旗本17家があった。明治に至り子爵となった。

[浅川清栄]

『『諏訪史 2~4巻』(1931~66・諏訪教育会)』『『諏訪の歴史』(1982・諏訪教育会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「諏訪氏」の意味・わかりやすい解説

諏訪氏 (すわうじ)

中・近世の信濃の豪族。諏訪上社大祝(おおほうり)家。神氏を称した。出自・系譜には諸説がある。神為仲が源義家の東征に従い,保元の乱には平吾らが源義朝の軍に加わっていた。盛重は源頼朝に仕え諏訪太郎と称し,以後鎌倉幕府御家人となり,また北条氏の御内人でもあった。1335年(建武2)の中先代の乱では頼重が一族をあげて挙兵し,北条時行を奉じて一時は鎌倉を占領したが,結局足利尊氏に敗れた。のち宗良親王を奉じて南朝にくみした。応仁の乱後,下社大祝金刺昌春を攻め落とし全諏訪を領した。戦国時代には武田氏と争い,1542年(天文11)頼重が武田晴信に謀殺されて一時断絶したが,のち頼重のいとこ頼忠に至って旧領を回復し,徳川家康に本領安堵された。小田原の役後は家康に従って関東へ移ったが,関ヶ原の戦の功によって頼忠の子頼水は諏訪高島に再び封ぜられた。その後大坂の役の戦功により筑摩郡に5000石加増された。子孫がこれをつぎ(3万石余),明治になって子爵となった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「諏訪氏」の意味・わかりやすい解説

諏訪氏
すわうじ

信濃の豪族で,江戸時代は諏訪郡高島藩主。出自には諸説あるが,代々信濃一宮諏訪大社の大祝 (おおはふり) で,鎌倉時代には幕府の御家人となり,戦国時代には諏訪郡一帯に勢力をふるった。慶長6 (1601) 年社家,武家分立して,後者が高島に封じられ,3万石を相承して明治にいたり,子爵に列した。 (→ )

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世界大百科事典(旧版)内の諏訪氏の言及

【上諏訪】より

…行政区画上の正式呼称としては,1874年3村合併で生まれた上諏訪村が最初。上諏訪の本来の中心は,湖の南方,守屋山山麓の諏訪上社付近で,古代に祭政一体の勢力圏を生み,中世に諏訪信仰の全国への広がりや諏訪氏武士団の活躍から大いに繁栄した。近世に入ると,その北方の湖東に形成された城下町,宿場町に中心が移った。…

【信濃国】より

…21年(承久3)の承久の乱には仁科氏,志賀氏等,一部が京方についたが,大部分は鎌倉方として参戦した。この乱に際しては,信濃国一宮である諏訪上社の大祝(おおはふり)である諏訪氏惣領家が武士としてはじめて参戦した。諏訪社の祭祀(五月会,御射山)への奉仕は,信濃国武士にとっては公事と同格またはそれ以上のものと考えられており,承久の乱における諏訪社大祝の動きが,他の信濃国武士に与える影響は大きかった。…

※「諏訪氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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