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近畿地方 きんきちほう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

近畿地方
きんきちほう

本州の中央部よりやや西寄りの地域を占め,畿内とその周辺を含めた地方の呼称。大阪府京都府兵庫県奈良県和歌山県滋賀県三重県の 2府 5県からなる。ただし,大都市圏としては三重県を東海地方に含め,福井県近畿地方に含めることが多い。

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デジタル大辞泉の解説

きんき‐ちほう〔‐チハウ〕【近畿地方】

京都大阪滋賀兵庫奈良和歌山三重の2府5県からなる地域。

出典|小学館
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百科事典マイペディアの解説

近畿地方【きんきちほう】

本州中部西寄りに位置する地方。京阪神を中心とした地域は関西の呼称もある。近畿とは江戸時代以前の日本の政治,文化の中心であった畿内(大和国山城国摂津国河内国和泉国)とその周辺(近江(おうみ)国伊賀国伊勢国志摩国紀伊国丹波国丹後国但馬(たじま)国播磨(はりま)国淡路国)の意。

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世界大百科事典 第2版の解説

きんきちほう【近畿地方】

本州中央部よりやや西寄りに位置する地方。京都,大阪の2府と,兵庫,奈良,三重,滋賀,和歌山の5県からなる。面積は3万3097km2で全国の約9%を占める。近畿地方は,古代から明治時代初期まで用いられていた古い地方区画である畿内(きない)の5ヵ国(大和,山城,摂津,河内,和泉)と,その周辺の10ヵ国(近江,伊賀,伊勢,志摩,紀伊,丹波,丹後,但馬(たじま),播磨,淡路)の範囲に相当する。近畿の名称も,畿内とその近辺の国々という意に由来する。

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大辞林 第三版の解説

きんきちほう【近畿地方】

京都・大阪・兵庫・奈良・和歌山・滋賀・三重の二府五県。近畿。

出典|三省堂
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日本の地名がわかる事典の解説

〔県域外〕近畿地方(きんきちほう)


明治後期に成立した日本を8つに分ける地方区分の一つで、本州中西部を占める地方。大阪・京都・三重・滋賀・兵庫・奈良・和歌山の2府5県にあたる。近年、三重県は東海(とうかい)地方に含める場合が多い。明治初期の東京遷都まで日本の政治・文化の一中心をなした。西日本の中心地として人口・産業の集積、土地の高度利用が進む。福井県南西部を加え、近畿圏を構成する。

出典|講談社
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

近畿地方
きんきちほう

日本列島の中央部に位置し、日本標準時子午線の東経135度が近畿地方を通る。北は日本海、南は太平洋に臨み、大阪、京都の2府と、三重、滋賀、兵庫、奈良、和歌山の5県を含む。ただし大都市圏としては、三重県、滋賀県は中部圏にも含まれ、福井県は近畿圏に包含される。
 近畿地方の呼称は、畿内(きない)とこれに近接した地方の意味で、明治後年に始まる日本の8地方区分名の一つとして一般化したものである。畿内は、王城を中心とした四方500里(1里は約400メートル)をさした中国漢代の称に倣い、大化改新の詔(みことのり)に「初修京師、置畿内」としたもので、その範囲については「東は名墾(なはり)の横河より以来(このかた)、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、西は赤石(あかし)の櫛淵(くしぶち)より以来、北は近江(おうみ)の狭々波(ささなみ)の合坂(おおさか)山より以来を畿内の国となす」と記されている。その後平安時代初期の国郡制によって大和(やまと)、山城(やましろ)、摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(いずみ)の5国に分けられたので、五畿内ともよばれた。近畿地方の範囲は、この畿内5国とその周辺の近江、伊賀、伊勢(いせ)、志摩、丹波(たんば)、丹後、但馬(たじま)、播磨(はりま)、紀伊、淡路(あわじ)の諸国を加えた15国にあたるが、近畿地方の呼称が始まった明治後年には、この範囲に成立した上記2府5県をさすことになったものである。
 畿内を中心とする近畿地方は、日本の古代国家誕生の地であり、以来明治初年の東京遷都に至るまで王城の地としてわが国の政治、経済、文化の中心地であった。上方(かみがた)とよばれることがあるのもそのためで、武家政権期、政治の中心地が畿内を離れた時代はあったが、奈良、平安時代に開花した王朝文化は、わが国の文化の基調となり、江戸幕府の時代においても、大坂は「天下の台所」としてその経済力を誇っていた。明治以後もなお商都大阪の経済力のうえに発展した阪神工業地帯は、わが国三大工業地帯の首位を保ってきた。近畿地方の経済的優位は第二次世界大戦まで続くが、戦後、首都東京への中央集権の強化によって、近畿地方は地盤沈下ということばで表現される相対的衰勢を示してきた。しかし1970年(昭和45)の日本万国博覧会開催を契機として、近畿復権の機運が高まったが、首都圏の成長には比肩できないまま、今日に至っている。なお、近畿地方は関東に対して関西とよばれる。古くは不破(ふわ)の関を、またおもに近世以来は箱根の関を境とする東西の呼称とされ、その地域は確定したものではないが、主として文化的特徴から関東に対する関西として近畿地方をさす場合が多い。1994年(平成6)大阪湾に建設された関西国際空港はその象徴ともいえる。また西日本とよぶ場合も近畿地方がその中心とされるのが一般である。[小池洋一]

自然


地形
近畿地方は本州島が北東方向から西方向に変わる転換点にあり、これを次の3地形区に大別することができる。第一に瀬戸内海の播磨灘(なだ)から淡路島を経て大阪湾に通じ、さらに伊勢湾に至る東西に断続する中央低地。第二にその北に接して日本海に至る北部山地。第三に中央低地の南に紀伊半島となって太平洋に突出する南部山地である。
 中央低地はその南縁に、西日本を内帯と外帯に分かつ中央構造線が直線的に東西走する。内帯に属する中央低地は瀬戸内海の陥没地帯の延長で、古生層と、中生代にこれを破ってほう入した花崗(かこう)岩類を基盤とし、その上に洪積層や沖積層が堆積(たいせき)。近江カルストとして知られる鈴鹿(すずか)山脈の石灰岩、田上(たなかみ)山、生駒(いこま)山、六甲(ろっこう)山などの花崗岩はその代表である。また瀬戸内火山系の大和三山や二上(にじょう)山、三笠(みかさ)山、春日(かすが)山などがみられる。その後の構造運動によって生じた地塁性の山地と地溝性の盆地など現在の地形の骨格がつくられてきた。中部地方との境界をなす伊吹(いぶき)山地から南に続く鈴鹿山脈、布引(ぬのびき)山地、また琵琶(びわ)湖西岸の比良(ひら)山地、大阪湾東部の生駒、金剛(こんごう)両山地、北部の六甲山地など多くは南北方向の地塁性の山地である。その間には伊勢平野や大阪平野のほか、近江、上野、京都、奈良などの地溝性の盆地が配列する。近江盆地にはわが国第一の湖である琵琶湖があり、面積670平方キロメートル、京阪神の給水源で近畿の水甕(みずがめ)といわれる。琵琶湖から流れ、伊賀、京都の水を集める淀(よど)川は流域面積8240平方キロメートル、河口に大阪平野を形成する。また奈良盆地からは大和川が流れて大阪湾に注ぎ、伊勢湾には鈴鹿川、雲出(くもず)川などが流入する。大阪湾を隔てた淡路島も断層による地塁性の島である。
 北部山地は、中央低地の北西に広がる高原状の中国山地の延長部で、東部は丹波高地、西部は播但(ばんたん)山地に分けられる。丹波高地は比良、六甲などの山地からしだいに高度を下げ、若狭(わかさ)湾に注ぐ由良(ゆら)川に沿う福知山盆地や、南流する淀川水系の大堰(おおい)川および加古川に沿って、それぞれ亀岡(かめおか)、篠山(ささやま)などの断層盆地がある。播但山地は氷ノ山(ひょうのせん)、三室(みむろ)山などの山々を連ねて中国山地と境する。日本海に注ぐ円山(まるやま)川に沿う豊岡(とよおか)盆地のほかは平地に乏しく、沈降性の海食海岸は山陰海岸国立公園に含まれている。これに対し瀬戸内海沿岸には播磨(姫路)平野が広がっている。北部山地は全般に等高性の高原をなし、分水界がわかりにくい所もあるほどである。
 南部山地は、中央構造線に沿う紀ノ川、櫛田(くしだ)川以南の外帯に属し、紀伊半島となって太平洋に突出する。北から古生層、中生層、第三紀層と順に新しい地層が帯状に並ぶ。これに従い山脈もほぼ東西走するが、中央部には東に山上(さんじょう)ヶ岳を主峰とする大峰(おおみね)山脈と、西に護摩壇(ごまだん)山を主峰とする紀和山脈が南北に走る。この山脈走行に従い、紀ノ川、日高(ひだか)川が西流、櫛田川、宮川が東流、熊野川が南流する。河川は北山川の瀞(どろ)峡に代表される穿入(せんにゅう)曲流をなすものが多く、紀ノ川河口平野のほかは平野に乏しい。山が海に迫り沈降と隆起の反復により、志摩半島にみられるように海成段丘が侵食を受けて沈降したリアス式海岸が多く、潮岬(しおのみさき)の陸繋(りくけい)島や七里御浜(しちりみはま)の砂礫(されき)海岸もみられる。第三紀層に湧出(ゆうしゅつ)した火成岩の影響で、勝浦、白浜などの温泉も多い。[小池洋一]
気候
近畿地方は、日本海斜面の日本海気候区、太平洋斜面の太平洋気候区と、両者に挟まれた瀬戸内気候区に分けられる。日本海気候区は瀬戸内海沿岸を除く北部山地一帯を含む。冬の北西季節風の影響を直接受け降雪が多いため、降水量は夏よりも冬に多い。冬の気温はそれほど低くないが、晴れる日は少ない。これに対し、太平洋気候区に属する紀伊半島は冬に比較的暖かいが、夏には南東季節風や台風の影響で雨量が多く、半島南部は年間4000ミリメートルを超える多雨地帯で、南海型気候の特徴を示す。瀬戸内気候区は中央低地を主とする瀬戸内海から伊勢湾に至る地域で、南北山地によって季節風が遮られ、気温は温暖であるが、年降水量は1200ミリメートル以下の寡雨地帯で、灌漑(かんがい)用溜池(ためいけ)が多いので知られる。伊勢湾沿岸はやや雨量が多く、瀬戸内気候と太平洋気候の遷移地帯である。また内陸の諸盆地は気温較差が大きく内陸性の特徴を示す。近畿地方の植生は、本来暖帯の照葉樹林帯に属し、クス、ツバキ、カシなどはなお各地に自生するが、スギ、ヒノキなどの針葉樹の人工樹林が多くなった。温暖な紀伊半島にはマキの自然林もあり、海岸にはアコウ、オオタニワタリなどの熱帯性植物もみられ、北部山地にもブナなどの原始林が残っている。紀伊半島沿海には串本(くしもと)、二木(にぎ)島などにサンゴその他熱帯性生物がみられ、海域公園に指定されているところもある。[小池洋一]

産業

1994年(平成6)の近畿地方7府県の府県内純生産は約86兆円で、中部地方と並び、全国の18%弱であるが、関東地方の半分に満たない。このうち第三次産業が約65%、第二次産業が約34%で、第一次産業はわずか0.9%にすぎない。
 近畿地方の総耕地面積は約32万ヘクタール(1996)であるが、その多くは滋賀、三重を中心とした中央低地や瀬戸内海沿岸などの平野や盆地に集中、水田率は平均78%で全国の55%よりはるかに高いが、ほとんど多毛作が行われる。耕地面積50アール未満の農家が20(滋賀)~54%(大阪)と小規模農家が多いが、京都や大阪などの近郊では古くから商品栽培の集約的な経営が進められ、近畿型農業とよばれてきた。第2種兼業率が各府県ともほとんど80%を超える。1995年から、主業農家、準主業農家、副主業農家という分類で統計がとられるようになったが、1996年の主業農家の割合は、滋賀6.6~和歌山41.4%である。農家1戸当りの収支をみると、農外所得が農業所得の7倍以上を占め、これが高い農家所得を維持している。このため農機具の普及率も高く、米の生産量は全国の約9%(1995)にすぎないが、大阪府のタマネギ、ブドウ、奈良のスイカ、三重、奈良、京都の茶、和歌山の柑橘(かんきつ)類、花卉(かき)、梅、淡路島の花卉など多面的な商品栽培が行われている。また但馬(たじま)牛の名で知られた北部山地は牧牛地域で、とくに兵庫県は肉牛、乳牛とも近畿地方では第一である。また兵庫県はブロイラーの生産でも全国屈指である。林業では古文化地帯の需要にこたえて、近畿地方の木材搬出は早くから進んだ。とくに温暖多雨な紀伊山地の蓄積量は多いが、不況と外材輸入増のため1996年の和歌山・奈良・三重3県の素材生産量は122万立方メートルにとどまっている。しかし奈良県吉野郡の杉は京都北山の杉丸太とともに高級銘柄の伝統を維持している。
 近畿地方の水産業は太平洋に面する紀伊半島沿岸が盛んで、和歌山県に99、三重県に71の漁港があり、あわせて年間30万トンの漁獲量があり、カツオ、マグロの沖合・遠洋漁業も行われ、志摩半島の真珠養殖も世界的に知られている。日本海と瀬戸内海に面する兵庫県は71の漁港で年間17万トンの漁獲量がある。近畿地方全般にブリ定置網などの沿岸漁業のほか、とくにハマチ、タイ、エビなどの水産養殖が主である。
 近畿地方の工業は阪神工業地帯を控え、工業総出荷額は60兆円(1996)で全国の20%にあたり、32%を占める関東地方に次ぐ地位を占める。近畿地方の近代工業は大阪湾岸の神戸、尼崎(あまがさき)、大阪、堺(さかい)などの臨海部の重化学工業を中心に、西へ明石(あかし)、姫路、相生(あいおい)へと播磨工業地域が、また南に向かって泉大津(いずみおおつ)から泉佐野へ、さらに和歌山県北部臨海工業地域へと連なり、また淀川に沿って北東に延び、京都から大津を経て琵琶湖東岸部に広がっている。また中京工業地帯の南縁として伊勢湾西岸の四日市(よっかいち)、桑名(くわな)などの北勢工業地域が発達している。周辺の紀伊半島では新宮(しんぐう)市の製材、製紙、北部山地では舞鶴(まいづる)市のガラスなどの近代工業がみられる。これらの近代工業地帯にも地域的な分化が現れている。神戸から堺に至る臨海部には広大な埋立地が造成され、鉄鋼、造船、石油、電器、機械、化学の大工場が集まり、これを取り巻いて紡績、食料品、雑貨の中小工場が立地する。また播磨工業地域には金属・化学・機械、紡績が、泉南諸都市には紡績、織物、また和歌山県北部には鉄鋼、化学、石油が立地する。淀川沿いには繊維、電器、食料品、先端技術工業が湖東にまで至っている。また四日市、桑名には石油、化繊、家具などが立地している。しかし歴史の古い近畿地方には、近代工業のほかに伝統工業も各地に残っている。京都の西陣織、友禅染、清水(きよみず)焼、京扇子など、ほかに堺、三木(みき)の刃物、灘(なだ)、伏見(ふしみ)の酒造、奈良の筆墨(ひつぼく)、龍野(たつの)のしょうゆ、奈良県桜井市の三輪そうめん、三重県上野の組紐(くみひも)、滋賀県信楽(しがらき)の陶器、海南市黒江の漆器など、特産品として知られたものが多い。[小池洋一]

交通

古くからわが国の政治、文化の中心であった近畿地方は、京七口といわれるように京都から全国に向かって、東海道、西国(さいごく)街道、山陰街道、北国(ほっこく)街道などが通じていた。また伊勢神宮や熊野三山など全国から集まる参詣(さんけい)道も早くから発達し、これらが改修されて国道や主要地方道となり、近畿地方の交通幹線の骨格をつくっている。また現在は高速自動車道網も発達している。鉄道も東海道・山陽新幹線をはじめ、大阪を中心に網状の発達を示したが、モータリゼーションの影響を受けて乗降客の減少から廃線となるものも現れてきた。民営鉄道も大阪を中心に高度の設備を競い、近畿地方の特色の一つとされてきたが、近年は伸び悩み、沿線に遊園地や住宅団地の開発を進めている。バス交通も同様で、山間僻地(へきち)では補助金による過疎バスの比率を高めている。1996年(平成8)末の近畿地方の自動車保有台数は1053万台強で全国の15.7%を占める高率である。
 近畿地方には国際戦略港湾が神戸、大阪の2港、国際拠点港湾が堺泉北、姫路、和歌山下津(しもつ)、四日市の4港あり、ことに神戸港はわが国有数の外国貿易港である。1995年(平成7)1月阪神・淡路大震災により被害をうけたが、1998年港湾施設の再整備が進められた。ほかに重要港湾7、うち日本海に臨む港は舞鶴1港で、ほかはすべて太平洋岸にあり、ことに淡路島や瀬戸内海各地への定期航路は頻繁であったが、1985年6月淡路島と四国間に大鳴門(おおなると)橋、1998年4月明石海峡大橋の開通に伴って、沿岸航路はほとんど廃止された。なお伊丹(いたみ)市に大阪国際空港、和歌山県白浜町に第3種の南紀白浜空港があるが、大阪国際空港が過密と公害のため、1994年9月大阪湾南部に関西国際空港が開港した。[小池洋一]

開発

古代国家の成立後、平安遷都に至るまで都城の造営はほぼ60回に及ぶが、近江の一部を除けばすべて畿内(きない)の地に限られている。それらは畿内各地の開発に、当時大きな影響を与えたものと思われる。とくに南北4.6キロメートル、東西3.1キロメートルの平城京、南北5.3キロメートル、東西4.7キロメートルの平安京という大規模な都城の造営は、その建築用材の調達に限っても、近畿各地の山林開発と水陸にわたる運搬路の開発を進める要因となった。これを支えた生産力の基盤となる耕地の開発は、畿内を中心として条里地割の遺構分布によってしのぶことができる。またこれに伴う瀬戸内寡雨気候克服のための農用溜池(ためいけ)の稠密(ちゅうみつ)な分布と用水路の築造も、古代以来の近畿地方の開発の進度を示すものである。中世においては広大な荘園(しょうえん)支配を背景とした社寺の造営、近世における各地城下町の経営、交通路、交通施設の整備など、近畿地方における開発の先進性をうかがうことができる。近世における新田の開発も各地で進められたが、1704年(宝永1)に完成した大和川付け替えと、これに伴う1063町歩の新田開発はその白眉(はくび)である。また断層盆地である京都盆地の遺跡湖として残った巨椋(おぐら)池には、かつて宇治川、木津川が流入していたが、豊臣(とよとみ)秀吉が伏見築城の際、宇治川を分離、1933年(昭和8)木津川を分離すると同時に干拓を進め、1941年に完成して700ヘクタールの水田が造成された。
 明治以後の近代化に伴い、鉄道など交通路の整備、工場地帯の造成と市街地の開発が進められ、阪神都市圏が形成された。第二次世界大戦中空襲によって大阪市をはじめ多くの戦災地を生じ、戦後復興の第一に行われた国土総合開発法による吉野熊野特定地域の開発は、1950年(昭和25)以来主として十津川(とつがわ)・熊野川の河川開発として進められ、猿谷(さるたに)ダムなど防災、発電用ダムの完成と紀ノ川への流域変更により、大和盆地への分水も行われた。また大阪湾、伊勢湾での大規模な埋立てによる工場用地造成、千里(せんり)、泉北、北摂(ほくせつ)、西神をはじめとする大規模住宅団地の造成も行われた。これらは1963年の近畿圏整備法を基盤とし、また水資源開発を中心とした琵琶湖総合開発も1972年以来進められているが、公害発生など開発に対する反省も高まり、環境保全と住民福祉に重点が置かれてきた。関西復権を目ざした計画として泉州沖に関西国際空港が建設され(1994)、京阪奈丘陵における関西文化学術研究都市の整備も進められている。[小池洋一]

人口

近畿地方の総面積は3万3100平方キロメートルで全国の8.8%(2006)、総人口は2276万人で全国人口の17.8%である(2005)。したがって人口密度は1平方キロメートル当り687人、全国平均338人の約2倍で、関東地方に次ぐ人口集積を示している。その分布をみると、大阪府に39%、兵庫県25%、京都府12%で、3府県あわせて75%が集まり、三重、奈良、滋賀、和歌山の各県は5~8%にすぎない。これは府県別の市制都市数にもほぼ反映し、大阪府33、兵庫県28、京都府13を数え、三重15、奈良11、滋賀13、和歌山7となっている(2005年10月)。1995年(平成7)国勢調査の各府県人口集中地域人口の各府県人口に対する比率も、大阪府95%、京都府81%、兵庫県73%と上記3県が高く、ほかは奈良62%、和歌山42%、三重40%、滋賀37%である。三重県は市の数に比し人口集中率が低く、和歌山県は人口密度は低いが集中度が高い。
 産業別人口は、人口の集中した京阪神での第三次産業人口比率が70%前後と高く、京阪神から遠ざかるにつれて第一次産業人口比率が高まり(2005)、人口密度分布にほぼ比例する。
 人口動態は第1回国勢調査(1920)の人口921万2000が、大正末年には1000万を超え、1940年(昭和15)には1313万となった。第二次世界大戦中は戦災によって減少し、1950年でも1307万であるが、その後の経済成長に伴い、1960年には1552万、1970年1895万、1980年2121万、1990年には2221万と急増。しかし増加率も地域差があり、1996年の前年対比をみると、奈良と滋賀が高く、これは住宅団地の造成などによって大阪市や京都市などの人口が分散した結果で、両市とも常住人口よりも昼間人口が多く、また増加率が比較的低い。しかし郡部人口は減少を続け、北部山地や紀伊山地に著しい。これは65歳以上の老齢人口率に反比例している。[小池洋一]

歴史

近畿地方は瀬戸内海を通じて先史時代から朝鮮半島および中国大陸との交流が行われていた。その影響は大和(やまと)平野や大阪平野に濃密に分布する先史遺跡にみることができる。やがてここに成立した大和朝廷が、律令(りつりょう)体制を整え、710年(和銅3)に造営した平城京も中国の都制に倣うものであった。こうして畿内はわが国の政治、経済、文化の中心地となった。遣隋使(けんずいし)、遣唐使の派遣も頻繁に行われたが、大陸文化をもたらした渡来人の集落遺跡も多く分布し、寺社建築物や文化財にそれをしのぶことができる。794年(延暦13)平安京遷都以来、ここに花開いた平安文化は、その後のわが国の文化の基調をなすことになった。平安京では東西に市(いち)が開かれ、全国の物産が貢租として送られていた。『延喜式(えんぎしき)』記載の諸国の調(ちょう)がそれを裏書きするが、とくに和泉(いずみ)、河内(かわち)、播磨(はりま)をはじめ近畿諸国の物産が多く、開発が早く行われたことを示している。中世においても、荘園(しょうえん)領主の貴族や寺社の集まる畿内へは、貢租米などが海路や内陸水運を利用して運ばれてきたので、水陸の結節点にあたる瀬戸内海、大阪湾、伊勢湾沿岸や琵琶湖水系に港町が発達し、また社寺の門前町や宿場町、市場町も、とくに近畿地方での密度が高い。堺(さかい)、兵庫、桑名、紀湊(きのみなと)や、琵琶湖岸の大津、今津、淀川水系の木津、淀などの港町、石清水八幡(いわしみずはちまん)、石山本願寺、伊勢神宮、富田林(とんだばやし)別院、高野山(こうやさん)、熊野三山、その他多数の社寺の門前町がこの時代に発達した。鎌倉時代は政治の中心が移り、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)によって京都は焼土となったが、戦国の群雄は天下に覇を競って王城の地に向かった。織田(おだ)信長、豊臣(とよとみ)秀吉によって京都の復興が図られ、畿内はまた全国の中心地となった。また秀吉が石山本願寺跡に築いた大坂城と運河の開削、市街の整備はその後の大坂の発展の基礎となった。江戸時代、幕政は江戸に移ったが、大坂の陣後、再整備が行われ、大坂には諸藩の蔵屋敷が設けられ、諸国物産の大集散地として「天下の台所」といわれ、その経済力は江戸をしのぐものがあった。幕藩体制においては領国大名の城下町が各地にあった。幕府直轄地の多い近畿では紀伊藩以外に大藩はないが、1万石以上の城下町は90余に及び、多くは交通の要地にあって港町や宿場町を兼ねることもあって、その多くは地方都市として現在に残っている。各藩の奨励もあって特産物の産地形成が進められた。丹後縮緬(ちりめん)、長浜の蚊帳(かや)、松坂木綿、播州(ばんしゅう)そうめん、赤穂(あこう)の塩、有田ミカンなどがそれである。
 明治以後東京が首都となり、一時活力は沈滞したかにみえたが、蓄積された文化と経済力をもって、京阪神を中心に近代工業を発展させ、日本の経済の中心地としての地位を盛り返した。昭和初期における大阪市の人口がわが国第1位、世界でも第6位であったことがそれを物語っている。しかし第二次世界大戦後、首都東京への中央集権化が強まり、本社管理部門を東京に移す企業も多く、近畿経済の地盤沈下がおきてきた。この機運を挽回(ばんかい)する契機となったのが1970年に大阪で開かれた日本万国博覧会で、その後、関西国際空港建設など、関西復権への努力がなされている。[小池洋一]

民俗

近畿地方は古くから稲作地帯であったので、いまもなお稲と関係する民俗が多く残されている。そのうえ、生産力も高かったため、各地に古くからの農業にかかわる民俗をもち伝えている。さらに近世、大坂という一大都市が出現したために、大坂を中心とする文化も成立してきた。大坂近郊の農民のなかには、栽培した野菜類を大坂の天満(てんま)などの市場で売り、市中の下肥(しもごえ)をとって帰る風もあった。それでも、兵庫県や和歌山県南部は有数な金銀銅鉄などの鉱山地帯であり、一方では京都府、奈良県、和歌山県は山林地帯なのでそれぞれにかかわる特異な民俗がある。漁村では年齢階梯(かいてい)制がことに発達しているのを見ることができる。[田中久夫]
社会生活
兵庫県北部では年齢集団の活躍がきわめて顕著であった。13歳までの男の子が1月14日、15日ごろにキツネガエリをする。子供たちは行列をつくり村境に御幣を立て、嫁をもらった家へ祝いに行く。このキツネガエリの行列を見ると目がつぶれるといい、行列の前触れが「火い消せ、火い消せ」とか、「早う寝っされや」といったという。秋になると近畿地方全体に、子供たちが藁(わら)の棒で亥の子(いのこ)づきをする。家々からぼたもちをもらって歩く。ただ、兵庫県でも岡山県との県境付近では川原の石を13枚のサンダワラに挟んでつくった亥の子に縄をつけてついている。ワカナカ(青年の組)になると、祭りの山車(だし)の引き回しや芸能などに参加する。そして、ようやく村の政治に参加するようになる。なかでも村の宮祭を行うのが重要な仕事になる。滋賀県や京都府などでは村人が1年間、神主(かんぬし)(一年神主)となってお宮の当番をし、神の意志を村人に伝えることが重大な職務となっている。
 新春から田植までの間に、粥占(かゆうらない)や御田(おんだ)とよばれる予祝儀礼が各地で行われている。御田で著名なのは2月の第1日曜日に行われる飛鳥坐(あすかにいます)神社(奈良県明日香(あすか)村)の行事である。兵庫県では姫路市の廣峯神社が4月3日に行う御田、18日の作物の豊凶を占う穂揃(ほぞろえ)祭であり、大阪や若狭(わかさ)方面に至るまで信仰を集めている。[田中久夫]
人の一生
子授け神は京都の県(あがた)神社、兵庫県篠山(ささやま)市の子八幡が有名であり、安産は神戸の摩耶(まや)山、宝塚市の中山観音や和泉市大野の阿弥陀(あみだ)寺が有名であった。古くは京都の老の坂の地蔵に祈った。待たれて生まれる子供であっても、滋賀県ではことに出産の「穢(けがれ)」をやかましくいった。産後の7日間は産室(多くは納戸(なんど))から出ることが許されなかった。とくにクド(かまど)に近づくことができなかった。この間、里方の母親がいっさいのめんどうをみたという。7日目にトリアゲバアサンに身体を洗ってもらい、そしてようやく産室から出ることができた。7日目は新生児の名付けでもある。長男(アニイ)であれば家の名を一字つけたという。1か月ぐらいすると宮参りである。食初めには川の石か蛸(たこ)をなめさせる。長男は村の子供の仲間入りをして村の仕事を学ぶことになる。これに対して、二、三男は丁稚(でっち)奉公に出かけた。娘たちも京都や大阪へ女中奉公に出た。村には奉公先の言葉を話す女性がいた。結婚適齢期になると呼び戻されて、親が決めた男(アニイ)と結婚させられたという。結婚式は夜である。大阪の河内(かわち)地方ではその当日の朝、アサムコイリといって、嫁方へ行く所も多い。奈良県の天理市では結婚式が遅くなるとアシイレがあったという。嫁入り荷物は明治ごろまでダイカグラといって一差(さし)(一荷)が多かった。なかにはサルマワシといって風呂敷(ふろしき)包みだけで行く者もあった。さらには嫁盗みという風習もあった。3日目にはミッカガエリといって里帰りをした。なお、滋賀県犬上(いぬかみ)郡多賀町萱原(かやはら)では末子相続と思われる慣行がある。男の厄年42歳には、ぜんざいなどを振舞い、女の33歳には火箸(ひばし)など長いものを当人に贈ったりする。厄除けの社寺参りをする者も多い。淡路島の安那賀(あなが)では真夜中に刀を差し、男の子供2人を引き連れ氏神へ出かけた。帰途、四辻(よつつじ)で身をはらい、持って行ったお金を落とした。帰ると正装した妻が玄関で三つ指をついて「二か二かと思っていましたら三でありました」(42歳の厄(やく)が抜けたという意味)と慶(よろこ)びの挨拶(あいさつ)をしたという。それからお祝いの宴会である。
 葬式は村の人の合力で行われる。また、ポックリ死への信仰がある。大阪府藤井寺市では老人の場合には「病人の枕許(まくらもと)に座るな、座ると苦しみが長引く。そこは迎えに来る亡者の席だ」という信仰がある。「1週間、床を冷やすな」といって、跡取りが病人の寝ていたところへ休むという、滋賀県北部地方のような例がある。そして、どこでも、座棺で土葬であった。しかも滋賀県では棺の蓋(ふた)を開けて中へ土を入れて埋葬する風がある。「早く土に帰れ」というわけである。そして滋賀県には遺棄墓制がいまでもある。また、近畿地方には両墓制が広くみられる。第一次墓地(埋め墓)を恐れ、なるべく近寄らないようにしている。滋賀県北部、兵庫県篠山市泉、姫路市保城(ほうしろ)などは、どこにも墓石を建てない風習の所である。コバカといって子供だけの埋葬地を設ける所もある。奈良県には広くみられる風習であった。兵庫県明石市東二見(ひがしふたみ)町にもみられた。[田中久夫]
年中行事
大晦日(おおみそか)の晩から元日の朝にかけては福を迎える行事が行われている。奈良県の東山中(ひがしさんちゅう)から三重県の伊賀地方にかけて分布する黄金の糞(ふん)をするという「フクマル犬呼び」の行事や、兵庫県北部の「フクドンブリ」と3回唱えて初水を汲(く)んだり、同じ地方に分布する「大歳(おおとし)の客」の話もそれである。そして正月の神のご神体を年桶(としおけ)とするのは産金地帯に多く分布し、米俵などをご神体とするのは米作地帯にみられる。正月の神は恵方(えほう)から来るともいう。そして、お正月をオケラビで沸して大福茶(おおぶくちゃ)と柿(かき)で祝うのが一般的である。雑煮(ぞうに)のかわりに納豆餅(なっとうもち)で祝うのが京都府右京(うきょう)区京北(けいほく)地区である。大きな花びら餅に納豆を挟んで食べる。ただし、少しだけ食べ残し、15日のトンドのときに食べる。1月2日は仕事始めで田へのレイマイリである。兵庫県の瀬戸内海側では毘沙門天(びしゃもんてん)と不動尊の化身である鬼追いの行事が小正月までの間に行われている。15日のトンドには子供の生まれることを願う行事が多くみられる。兵庫県篠山市の子八幡のオトウには子供の生まれることを願う夫婦が同席して祈る。家に帰るまでいっさい無言でなければならないという。2月に入ると、兵庫県の但馬(たじま)一帯では片足の神の来るのを祀(まつ)る「コトの箸(はし)」の行事がある。餅も搗(つ)くが、コトが終るとカラワラでつくった大きなアシナカをよく見えるようにと柿の木などにぶら下げる。その落ちた瞬間を見た人はお金持ちになるという。節分には豆をまく。ことに京都の壬生寺(みぶでら)は豆まきの由来を語る無言狂言でにぎわう。3月3日には雛節供(ひなせっく)があり、4月8日はお釈迦(しゃか)の誕生会である。また、この日に天道花といって、竿(さお)の先にツツジ、フジなどの花を付けたものを立てる。マムシにかまれぬまじないという。5月5日は端午の節供で男の子の祭りである。これに対して、旧暦の5月5日に赤い鍾馗(しょうき)の絵を飾って魔除(まよ)けとする家が、大阪府藤井寺市にある。それにしても5日の朝の露は薬になるといって、夜露のついたショウブの鉢巻をする風は広い。頭痛のまじないでもあるという。牛頭天王(ごずてんのう)への信仰であった。そして、ことに女性はショウブ風呂にだれよりも先に入った。もとは、翌日から田植を始めたので、女性たちの田植前の慎みであった。そして田植は夏至のころから半夏生(はんげしょう)までに終える。半夏生にはアカネコといったりする小麦餅をつくって祝った(大阪河内地方)。7月31日ごろ、日本海側では川スソ祭りが広く行われている。これも女性の祭りである。
 8月7日の七夕には井戸かえをした。井戸の掃除である。七夕様には生きた田鮒(たぶな)をドンブリで供えたり、紙の着物を供えたりする所が兵庫県の西部にある。またこの日は七日盆といってお盆の始りである。もっとも、実際はココノカビともいって、観音の縁日の9日に精霊(しょうりょう)迎えをする所が多い。大阪狭山(さやま)市を中心とする地方では、ハツボンの仏さんに屏風(びょうぶ)のような落雁(らくがん)を2枚供えるのは珍しい。13日、14日の両日をお盆とするのが、兵庫県の篠山(ささやま)地方である。ここでは稲穂1本でもとってきてお供えするという。滋賀県大津市北小松でもそうである。15日にご先祖さんが田巡りをするというのが奈良県天理市福住や吉野郡野迫川(のせがわ)村である。8月24日の地蔵盆の朝、3時ごろに地蔵を祀(まつ)るのが、兵庫県加古川(かこがわ)市近郊である。子供たちも早朝からお接待(お供えのお菓子などをいただく)を集めて回る。日本海側では化粧地蔵の風習がある。そして、旧暦の7月31日から8月1日にかけて、風の吹かないことと、穂ばらみを願う八朔(はっさく)の祭りが村々で行われる。お月見に団子とサトイモを供え、やがてくる田刈りが終わる旧暦の10月の亥の日の晩には、田の神が野(の)から帰るといって、亥の子(いのこ)の祭りがある。この日からこたつを出した。ダイコン畑に入ってはならぬということが広く伝えられている。12月1日はオトゴツイタチといい、ナスの漬物と小豆(あずき)ご飯を食べる日である。水難除けのまじないである。8日は針供養、日本海側では「八日吹き」があり、ハリセンボン(フグの一種)が吹き寄せられる日である。これをとってきて玄関などに吊(つる)し魔除けとする。9日は山の神祭りで、この日は山に入ってはならない。23日(もとは旧暦11月23日)は兵庫県の但馬(たじま)地方や福井県の若狭(わかさ)地方ではニジュウソウがある。この神は祀らぬと荒れるといい、またかならず雪が降るともいう。この日、足の不自由なお大師様が各地を回るからというのである。[田中久夫]

民話

大正年間に『有田童話集』『南紀土俗資料』『丹波口碑集』が編まれ、昭和初年代に『牟婁(むろ)口碑集』『大和昔譚(むかしばなし)』『播州小河地方の昔話』などが刊行されて、この地方は早くから民話に関心が向けられてきた。古くから栄えた都の文化と、その周辺にある山海村の民俗が互いに交差した特有の話がみられる。たとえば「喰(く)わず女房」の多くが五月節供の由来を説くが、一方でヨモギ、ショウブを持って山入りする山中生活者の作法を語り、さらに農民が自在鉤(かぎ)に小魚を挟む大歳(おおとし)の魔除けの民俗の説明伝承にもなっている。また奈良県吉野郡下で知られるものに「猫と茶釜(ちゃがま)」における一本足の猫、「牛方山姥(やまんば)」の一本足の山姥、そして弘法(こうぼう)大師や源義経(よしつね)が12月20日にやはり一本足で出現すると語られる。これらは、古来神々が巡行すると信じられたコトの20日と結んだ伝承であり、そこには、その夜、忌籠(いみこも)って神々を遇した民俗や、外に出るのを戒めた禁忌が昔話と合致して語られている。この地方は古くから宗教の拠点として隆昌(りゅうしょう)をみた土地がらを映して、神仏にかかわる伝説的な色合いを帯びる話が多い。奈良県明日香(あすか)村の岡寺縁起を語る「大歳の火」は三重県下に行われて注目される。より広範な伝承として、三井寺(みいでら)の霊験譚(たん)と結んだ「蛇(へび)女房」、三輪山(みわやま)の古伝承をいう「蛇聟入(へびむこいり)」などはその典型的な例である。また唱導説教の流れをくむものも多い。泉州信太の森(しのだのもり)の聖(ひじり)神社、葛葉(くずは)社の由来にも説かれる「狐(きつね)女房」「聴耳(ききみみ)」は、説経浄瑠璃(せっきょうじょうるり)として流行をみ、五説経の一つにあげられている。しかも、陰陽師(おんみょうじ)の管掌した語り物として喧伝(けんでん)され、『臥雲(がうん)日件録』『ほき抄』にも収められる。一方で上方(かみがた)話の影響も大きく「和尚(おしょう)と小僧」などの笑話、世間話がなべて好まれた傾向にある。近江に残る「大木の秘密」は、『今昔(こんじゃく)物語集』所収の巨樹伝承を母体にするが、『古風土記(こふどき)逸文考証』『三国伝記』中、すでに今日の原型が確認できる話であることは、特記すべきであろう。[野村純一]
『宮本又次他著『郷土の歴史 近畿編』(1959・宝文館) ▽『日本地理風俗大系 近畿地方』上下(1959・誠文堂新光社) ▽『図説日本文化地理大系 近畿』(1960、1962・小学館) ▽『風土記日本 近畿編』(1960・平凡社) ▽『日本の地理 近畿編』(1960・岩波書店) ▽日本地誌研究所編『日本地誌13~15巻 近畿地方』(1981、1982・二宮書店) ▽大明堂編集部編『新日本地誌ゼミナール5 近畿地方』(1986・大明堂) ▽宮本又次著『関西文明と風土』(1970・至誠堂) ▽田中久夫他著『近畿の歳時習俗』(1976・明玄書房) ▽原田伴彦他著『関西の風土と歴史』(1976・山川出版社) ▽藤岡謙二郎著『河谷の歴史地理』(1958・菊書房) ▽山口恵一郎他編『日本図誌大系』(1973・朝倉書店) ▽編纂委員会編『日本地名大辞典』(1985・角川書店) ▽直木孝次郎、森杉夫他監修『日本歴史地名大系』(1983・平凡社) ▽井上頼寿著『京都民俗誌』(1968・平凡社) ▽『兵庫探検』民俗編(1971・神戸新聞社) ▽肥後和男著『近江に於ける宮座の研究』(1973・臨川書店) ▽『日本の民俗』滋賀・京都・大阪・兵庫・和歌山(1972~1975・第一法規) ▽田中久夫他著『近畿の民間信仰』(1973・明玄書房) ▽久下隆史他著『近畿の民間療法』(1977・明玄書房) ▽酒向伸行他著『近畿の祝事』(1978・明玄書房) ▽井阪康二他著『近畿の葬送・墓制』(1979・明玄書房) ▽辰巳衛治他著『近畿の生業』(1980・明玄書房) ▽久下隆史他著『近畿地方の住い習俗』(1984・明玄書房) ▽久下隆史他著『近畿地方の火の民俗』(1985・明玄書房) ▽酒向伸行他著『近畿地方の石の民俗』(1987・明玄書房) ▽田中久夫著『年中行事と民間信仰』(1985・弘文堂) ▽久下隆史著『村落祭祀と芸能』(1989・名著出版) ▽網野善彦他編『日本民俗文化大系 全14巻・別巻1』(1994・小学館) ▽田中久夫著『金銀銅鉄伝承と歴史の道』(1996・岩田書院) ▽田中久夫他著『ふるさと兵庫 暮しの四季彩』(1997・旺文社) ▽田中久夫著『祖先祭祀の展開―日本民俗学の課題』(1998・清文堂)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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