改訂新版 世界大百科事典 「多聞山城」の意味・わかりやすい解説
多聞山城 (たもんやまじょう)
奈良市北部,佐保丘陵の南東隅にあった中世末期の平山城。京街道を眼下に見下ろす要地にあり,1560年(永禄3)前年から大和に入った松永久秀が,西の信貴山城とならんで構築に着手した。65年には多数の塔(櫓か)や塁保(多聞か),多くの階を重ねた家屋が建ちならび,城壁と塁保は白壁,御殿内部は彫刻,壁画,金地で飾られた豪華なものであったことなどが,当城を訪れた宣教師ルイス・アルメイダの書簡で知られる。また4階の櫓があったことが《多聞院日記》に記される。たしかな文献による天守閣は当城が最初で,また多聞もはじめて作られたことから名付けられたとされる。茶の湯の名手でもあった久秀は多聞山城でもたびたび茶会をひらき,そのようすが《天王寺屋会記》などに記される。文献の多いこともこの城の特色で,城郭史・城郭研究史上に大きな位置を占める。
久秀は68年信長に下り,その後いったん反抗したものの再び降伏,73年(天正1)当城を明け渡した。以後,明智光秀,柴田勝家らが城番として入り,75年奈良を訪れた織田信長は当城も検分した。ついで原田直政が入り,直政戦死後,76年大和が筒井順慶に与えられると,順慶は多聞山城には入らず,同年7月から破却をはじめた。破却作業は長期にわたり,77年4階の櫓を壊したあと,79年にも石垣の石を筒井城(現,大和郡山市)へ運んでいる。遺跡地には現在奈良市立若草中学校が建ち,遺跡の大部分は破壊されてしまっている。
執筆者:熱田 公
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報