倉谷村
くらたにむら
[現在地名]舞鶴市字倉谷
田辺城下の東に位置し、佐武嶽の連山を背に、前には伊佐津川が流れる。大泉寺の東方、通称かじやまの丘陵頂に丸山古墳があり、頂部に石室、下部に玄道に使った石が散在している。
古代は「和名抄」に記す大内郷、中世には大内庄の地であったと考えられる。
慶長検地郷村帳に高六六〇・八二石「倉谷村」とみえ、江戸後期の土目録では六二七石余と減少している。内訳は田方四七七石余、畑方一〇八石余、「検地打減」三二石余などとなっている。
倉谷村
くらだにむら
[現在地名]名和町倉谷
木料村の南西にあり、真子川が集落の中央を流れる。拝領高二九五石余、本免五ツ一歩。給人所付帳によると平井氏の給地があった。竹運上銀二〇匁七分が課せられていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三八八石余、竈数五一。谷野金右衛門(安永九年没)は東部の谷に堤を築造し、成新田を開拓した(名和町誌)。
倉谷村
くらだにむら
[現在地名]下郷町栄富
小池村の北西、阿賀川支流戸石川北岸の河岸段丘上に立地。下野街道の宿駅村。もと串谷村と称したが治承年中(一一七七―八一)高倉宮が通行したことから倉谷と改称したという(新編会津風土記)。勝負平に縄文土器・土師器・須恵器が出土する遺跡がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では「寺花」(高二六二石余)に含まれる。寺花は戸石川上流北岸一帯の地名で、当村のほか水抜村を含んだと伝える。
倉谷村
くらたにむら
[現在地名]真野町大倉谷
北の大立村と南の田切須村の中間。集落は現国道三五〇号沿いの段丘上にある。慶長五年(一六〇〇)の検地帳(倉谷区有)の表紙に「佐州渋手之内蔵谷村」と記される。苅高合計一千一八二束五把苅。耕地は高塚山北麓の地字竹上・塚ノはた・なたきりの沢・南之田などにあり、この耕地の近くには中世の小城跡が残る。元禄七年(一六九四)の検地帳(同区有)では田五町五反余・畑一一町二反余。屋敷持は二八筆で地字上城・下城・堀外などにある。
倉谷村
くらたにむら
[現在地名]金沢市倉谷町
二又村の南、犀川水系最上流域、同川支流倉谷川沿いの谷間に位置したが、昭和三七年(一九六二)に着工、同四一年に完成した犀川ダムの建設に伴って集落の一部が水没、住民は全戸他所へ移転した。平氏の落人が開村したと伝え(加賀志徴)、二又村・日尾村などとともに奥(山奥)四ヵ村または倉谷四ヵ村として一括されていた。
倉谷村
くらたにむら
[現在地名]加西市倉谷町
三口村の南東に位置し、中播丘陵の中央部に立地する。慶長国絵図に蔵谷とみえる。領主の変遷は延宝六年(一六七八)までは窪田村と、それ以後は市場村と同じ。正保郷帳では田方三一四石余・畑方七石余。元禄郷帳では高三四八石余。天保郷帳では高三五五石余。天保一一年(一八四〇)の田安領知村鑑大概帳(田安徳川家文書)によると家数七五・人数三七八、牛一六。
倉谷村
くらたにむら
[現在地名]篠山市倉谷
春日江村の南西に位置する。「丹波志」では宗部郷の春日江のうちに倉谷があり、倉谷のうちに佐貫谷があると記される。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では泉組のうち倉谷とあり、家数一六・人数七一。
倉谷村
くらだにむら
[現在地名]亀岡市東別院町倉谷
北は南掛、東は栢原、南は鎌倉、西は湯谷の村々。山に囲まれた村である。
天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば高一〇八石、戸数二〇、高槻藩領。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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