古代よりみえる島で、知賀島・血鹿島などとも記される。現在の五島列島に相当するが、あるいは平戸島を含む諸島の総称であったとも考えられる。つまり肥前国のうち九州本島の地続きの地からみた呼称であったと想定できるが、これは壱岐島や対馬島に対応した命名であろうか。島内に
「日本書紀」敏達天皇一二年是歳条によれば、百済の使者が帰国に際してともに来日した日羅の暗殺を徳爾らに命じて、「血鹿」に向かって出発したという。天武天皇六年(六七七)新羅人阿朴刺破・従人三口・僧三人が「血鹿」に漂着している(同書同年五月七日条)。弘仁四年(八一三)二月九日、新羅人一一〇人が五艘の船で「小近島」にやってきて土民と戦火を交え、「打殺九人。捕獲一百一人」という事件があった(「日本紀略」同年三月一八日条)。貞観一一年(八六九)には新羅人が豊前からの貢船を筑前博多で襲い、絹・綿などを略奪したが、この賊もくだんの島を経て来たという。同島は対馬などの可能性もあるが、また唐人らはまずこの島に寄って香薬を多く採集し、海浜に多くみられる奇石を鍛練して銀を得たり、磨いて玉に似せるために唐人がその石を好んで取りに来ていたらしい(「三代実録」貞観一八年三月九日条)。天平一二年(七四〇)九月に九州諸国の兵を動員して反乱を起こした藤原広嗣が追討軍に敗れて朝鮮半島に渡るため値賀島から出航し東風に乗って四日後に耽羅島(済州島)の近くまで達したものの、風がやんだため一昼夜漂流したあと西風を受けて戻され、「等保知駕島色都島」に着岸を余儀なくされ(「続日本紀」同年一一月五日条)、一〇月二三日に至って「松浦郡値嘉島」
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
現在の五島列島を中心とした歴史地名。《和名抄》に,肥前国松浦郡値嘉郷とあるが,古くは知訶,血鹿とも表記した。《肥前国風土記》には,〈遠けれど,猶,近きが如く見ゆ。近嶋(ちかしま)と謂ふべし〉という景行天皇にまつわる地名由来伝承をのせている。876年(貞観18)には,大宰権帥在原行平の起請によって,松浦郡庇羅(ひら)(平戸島)と値嘉の両郷を2郡とし,上近郡,下近郡と称し,併せて値嘉島となし,新たに嶋司郡領を置くこととなり,壱岐,対馬とならぶ行政区画となったが,まもなく廃されてもとの肥前国になった。この島は交通の要衝で,相子田(あいこだ)の泊,川原浦などの港を有し,遣唐使船も寄港した。また烽(とぶひ)3ヵ所があり,この島の白水郎(海人)は馬,牛を多くもち,容貌は隼人に似て,つねに騎射を好んだといい,軍事上の重要拠点でもあった。中世には宇野御厨(みくりや)がおかれた。
執筆者:井上 辰雄
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長崎県五島列島(ごとうれっとう)の古称。知詞島とも書く。『古事記』に、大八洲(おおやしま)のほかに六島を生んだという伝説的記録の六島のなかに「ちかのしま」が含まれている。値嘉郷(さと)は五島列島と平戸(ひらど)島の両者をさすともいわれる。『肥前国風土記(ふどき)』によると、その昔、景行天皇(けいこうてんのう)が志式嶋(しじきじま)(平戸市志々伎(しじき))の行宮(あんぐう)に巡幸されたとき、西の海をご覧になり、第一の島を小近(おちか)(小値賀(おぢか)島)といい、第二の島を大近(おおぢか)(中通(なかどおり)島、または中通島およびそれ以南の島)とよび、遠くにあるが近くに見えるので近島(ちかしま)(値賀島)とよぶようになったと伝えられる。
[石井泰義]
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各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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