日本からの使客接待のために朝鮮に設けられた建物。室町期には三浦(富山浦,薺浦(せいほ),塩浦)と漢城(現在のソウル)に,江戸期には富山浦(現在の釜山)のみに置かれた。室町期の日朝貿易は外交使節往来の形式をとり,日本各地からの渡航使者は三浦で朝鮮側役人による書契,図書・文引などの検察をうけ,倭館(東平館・西平館の2館に分かれる)に入宿し,使節の格に応じて朝鮮側の接待をうけた。そのあと上京の途につき,途中の宿泊地でも接待をうけながら漢城の倭館に入宿,ここでも接待をうけ,さらに王宮で朝鮮国王の謁見をうけたりした。他方,江戸期の倭館は富山浦内の豆毛浦から草梁に移されたが(1678),東館(館守屋,裁判屋,開市大庁)と西館(東・中・西の旅館)に分かれ,対馬から代官が派遣されて外交や公私の貿易をここで行った。江戸期には倭館に接して朝鮮側の宴大庁,柔遠館,客舎などがあり,対馬からの送使への饗宴,朝鮮側接待者・通訳官の宿泊に使われ,現在も一部が竜頭公園に保存されている。
執筆者:矢沢 康祐
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15世紀、朝鮮王朝(李氏(りし)朝鮮)の初期、日本から通交のため朝鮮に渡航した日本人を接待した客館。これは三浦(さんぽ)(薺浦(せいほ)=乃而(だいじ)浦、釜山(ふざん)浦、塩(えん)浦)のほか漢城(ソウル)にも設けられた。漢城倭館の施設として東平館と西平館が知られている。この倭館で貿易が行われた。その方法は、倭船が浦所へ着くと、慶尚道観察使が積載物貨の名称と数量を検査し、駅馬を利用して日本人を漢城へ送る。渡航した日本人は朝鮮国王に拝謁し、書契と進物を呈し、国王から回賜を受け、朝鮮政府の指定した期日と方法によって倭館で貿易を行う。その意味で、倭館は貿易の場でもあった。また、彼らの滞在中の費用は朝鮮側が負担した。漢城の倭館は、1609年(慶長14)日本使節の上京が禁ぜられて廃止となり、浦所の倭館のみが残り明治に至った。
[北島万次]
『中村栄孝著『日鮮関係史の研究 上』(1969・吉川弘文館)』
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室町~江戸時代,李氏朝鮮が日本人使節接待のために設けた客館,ならびに居留地域。都の漢城(現,ソウル)には日本人の客館として東平館(とうへいかん)がおかれ,倭館と通称された。浦所については,1423年(応永30)乃而浦(ないじほ)(薺浦(せいほ))・富山浦(ふざんほ)(釜山)に,のち塩浦(えんぽ)にも設置された。1510年(永正7)の三浦(さんぽ)の乱の結果,12年から薺浦以外の倭館は閉鎖。21年(大永元)開港場に釜山が加わり倭館は2カ所になったが,44年(天文13)の通交断絶後,47年から釜山の豆毛浦(ともうほ)1カ所に限られた。文禄・慶長の役で閉鎖,その後再開されて絶影島仮倭館,1607~78年(慶長12~延宝6)は豆毛浦倭館,78~1873年(明治6)は草梁(そうりょう)倭館と,場所を変えた。
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…これによって,日朝間に占める宗氏の位置は決定的なものとなり,一方,諸大名・豪族等の勢力が後退して,それらの名義を借りた偽使が対馬から派遣される状態になっていった。日本からの渡航者は,はじめ南沿岸の浦所に随時停泊して交易を行うことを許されていたが,これもやがて朝鮮側が開港場を指定し,そこに応接所兼交易所(倭館)を設けて,他港への出入りを禁じた。開港場は,富山浦,薺浦(せいほ),塩浦の3ヵ所で,これを三浦(さんぽ)と称する。…
※「倭館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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