中国,漢末の200年ころに張仲景が撰したとされている中国の臨床医学の古典。張仲景は長沙の太守であったとよくいわれるが,この説には根拠はなく,むしろ伝説的な名医で,もっとも古いものとしては《三国志》の注にその名がみられる。《傷寒論》という書名も王燾(おうとう)の《外台秘要(げだいひよう)》(752撰)に出て来るのが最初であるが,そこに引用されている処方の内容は現行のものとかなり違っている。しかし現行本とほとんどそっくりの文が孫思邈(そんしばく)の《千金翼方》(660ころ撰)に含まれている。この書には《金匱玉函経》など多くの異本(王燾が引用したのもその一つ)があるから,各地に張仲景の流れを汲むと称する医師団があり,それぞれの集団内で伝えられて来た書の一つが現行本と考えるべきであろうし,それが最終的に現在の形にまとめられたのは唐代またはそれに近い時代であろう。ただしそれも北宋時代に校勘作業を受けているから,現行本にも唐代のものとのあいだに多少の違いのある可能性があり,巻によって内容量が大きく違っているから,完本でないことも明らかである。傷寒は急性の熱病で,発疹チフスとかワイル病などを含めた複数の病気の総称であろう。《傷寒論》は傷寒の発病から死亡までの全経過を6段階に分け,各段階のさまざまの病状を記述し,それぞれに応じた治療法を指示したものである。このように一つの病気を取りあげて,その治療法を系統的に述べたり,治療過誤の対処法に触れた例は,中国医学古典ではほかには見られない。治療はほとんどすべて薬物によるもので,煎剤が多く,医学理論にはほとんど触れていない。この書は後世に大きな影響を残し,この書の治療法を《素問》(《黄帝内経》)で理論づけようとしたのが金元医学の始まりであり,その治療法を発展させたのが日本の古方派の漢方医学である。この書の処方は現在でも用いられているが,その使用法は原本とは違うことが多い。また,もとは《傷寒雑病論》という書があり,そのうちの傷寒の部分に相当するものがこれであって,残りが《金匱要略》であるという説もあるが,それほど簡単な関係ではないようである。
執筆者:赤堀 昭
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中国の医学書。漢方医学の原典とも、またバイブルとも目される書であり、後漢(ごかん)(25~220)の時代の長沙(ちょうさ)の太守、張仲景によって著されたといわれる。
腸チフス様の急性悪性感染症(傷寒)と、かぜ症候群様の急性良性感染症(中風)とを相対比させながら、その初発から終末までの、時間の経過とともに変化していく病態を、大局的に把握しかつ分類し、その分類に応じての治療の原則や、その原則に従っての治療処方とその応用の仕方を、きわめて簡明直截(ちょくせつ)に述べた経験医学書である。したがって、本書は単に腸チフスやかぜに対する対応の仕方を述べたというような簡単なものではなく、疾病そのものに対する見方や処置の仕方を教えたものであり、そうした内容の書は他に類をみない。本書が他の多くの医書に優れるばかりでなく、2000年後の現代に至ってもその真価が失われることなく、済生の道に活用されている理由はそうした点にあるといえる。現代医学の新薬の命が、多くは10年前後であるのをみるとき、『傷寒論』の所論と処方とが、いかに価値あるものであるかが明らかになる。『傷寒論』は張仲景の著述とされるが確証はない。もとの形は『傷寒雑病論』で、うち「雑病論」が『金匱要略(きんきようりゃく)』に分けられたとされる。いずれにせよ『傷寒論』の内容は高度であり、真理によく迫っていて、とうてい2代や3代の人によってつくりうる種類のものではない。その文体が『易経』に似ている点から発生はかなり古いと推測されるが、確証はなく、本書成立の経緯に関しては、今後の埋蔵文化の発掘などに期待するしかない。『傷寒論』成立の研究に努めた大塚敬節(よしのり)は、その著『臨床応用傷寒論解説』(1966)で「江南の地方を背景として発生した医学を、漢末より三国時代にかけて集大成したものが傷寒論である、と考えている」としている。
[藤平 健]
『大塚敬節著『臨床応用傷寒論解説』(1966・創元社)』
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後漢の張仲景の著作。10巻。現存のものは晋の王叔和(おうしゅくわ)の整理をへている。急性発熱性疾患の処方を記録したもので,古来医学の古典として普及している。
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…しかし,宣教師から得た医学的知識・技術は,南蛮流として,しだいに日本風に同化しつつ,その後も命脈を保った。
[江戸時代]
江戸時代の医学の主流は,上述の新しく中国から受容した医学であったが,その中にあって,あえて古い医学,とくに《傷寒論》を基本にしようという医師たちが現れた。その先駆者は,永田徳本,名古屋玄医,後藤艮山(ごとうこんざん),山脇東洋,吉益東洞らである。…
…とくに中国大陸の広大な地域で,それぞれの地方の風土や生活様式に応じて,異なった医療方法が発達していたが,これらの地方医術は前8世紀から前3世紀にかけての春秋時代以降,各地方の統一,交流がすすむにしたがって,しだいに集成され,体系づけられていった。その代表的なものが,後漢(1~3世紀)のころの《神農本草》と,《傷寒論(雑病論)》である。前者は,西方山地に発達したとされる〈薬効ある自然物〉に関する知識をまとめたもので,中国医学における薬学(本草学)の基礎となったものであり,後者は,身のまわりに存在するありふれた薬物(生薬)を適宜に組み合わせて,その総合的効果が十分に発揮できる特定の条件の疾病に用いるという,当時の江南地方の医術における経験が整理され,一定の薬物を配合した処方に適応する条件(これを証という)という根本概念を把握し,体系化したものである。…
…漢方医学の原典として尊重される《傷寒論》に収載されている漢方方剤の一つ。葛根,麻黄,桂枝,生姜(しようきよう),甘草,芍薬(しやくやく),大棗(たいそう)の7種の生薬からなる処方である。…
…現存の《外台秘要(げだいひよう)》(752撰)や《医心方》(984撰)に引用されている処方の多くはこの時代のものであり,《千金方》の処方もこのようなものが多いと考えられる。《傷寒論》もそのような処方集の一つで,後漢末に張仲景によって編纂されたといわれているが,傷寒病(急性発熱性伝染病で発疹チフスともワイル氏病ともいわれる)の経過を太陽,陽明,少陽,太陰,少陰,厥陰の6時期に分け,それぞれの時期の病状の推移を記述し,それに応じた治療法を述べたものである。症候としては特に脈拍の性状を重視し,治療はもっぱら薬物療法により,それも湯剤の使用が多いという点に,他の書にみられない特徴がある。…
※「傷寒論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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