僧尼を統括し、その非行を取り締まる役。国家は仏教教団を行政組織に組み入れて支配するために、種々の制度を設け、さらに僧官を任命した。日本では、すでに養老令(ようろうりょう)(718)に僧尼令27条があって僧尼を取り締まり、それより先、624年(推古天皇32)に百済(くだら)の僧観勒(かんろく)が僧正(そうじょう)に任ぜられ、683年(天武天皇12)には、中央に僧正、僧都(そうず)、律師(りっし)の僧綱(そうごう)を置き、地方の寺にはそれぞれ三綱(ごう)(上座(じょうざ)、寺主(じしゅ)、都維那(ついな))を置いて僧尼を取り締まった。有能な僧を僧官に任命して僧尼を統括させることは、すでに中国にある。北魏(ほくぎ)の時代(397)に法果を沙門統(しゃもんとう)に任じた。後秦(こうしん)の時代(405)には僧(そうりゃく)が僧正に任ぜられ、僧遷が悦衆(えつしゅ)、法欽らが僧録(そうろく)に任ぜられたという。彼らは国家から費用が給せられ、この制度が日本に移入せられて僧綱の制度となった。
奈良・平安時代には僧綱の権威は強大で、僧尼の非行を取り締まり、出家と還俗(げんぞく)の事務を行い、教団行政に君臨した。出家のとき僧綱より度牒(どちょう)(得度を公認する文書)が与えられ、在家の籍を抜き、人頭税が免ぜられた。最澄(さいちょう)が比叡山(ひえいざん)に大乗戒壇をつくらんとした目的の一つは、僧綱の支配を脱せんためであった。しかしのちには、僧官は名誉職となり、皇室や貴族出身の僧が高位の僧官に任ぜられるようになった。僧正は僧官の最高位であり、その下に僧都があり、僧尼を統括した。中国では6世紀に慧光(えこう)が僧都に任ぜられたのが初めで、日本では624年に鞍部徳積(くらつくりのとくしゃく)が任ぜられたのが最初であるという。僧録も僧官の1種であり、後秦代に初めて置かれたが、僧尼の名籍などを記録し、僧の人事をつかさどった。わが国では室町時代にこの僧官が置かれ、相国(しょうこく)寺の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が僧録に任ぜられ、京都禅宗寺院の五山十刹(じっせつ)の人事をつかさどり、あわせて幕府の政治外交等の文書をも作成した。この事務所を僧録司という。
[平川 彰]
政府から任命されて,教団を統率し宗教業務をつかさどる僧をいう。中国においては,北魏の道武帝が皇始年間(396-397)に法果を道人統に任じたのが,もっとも早い記録であり,後秦でも405年ごろに僧主,悦衆,僧録を置いた。僧官の名称は時代によってさまざまであったが,おおむね南北朝時代には,北朝は道人統の系統をひく沙門統,昭玄統を長官とし,南朝では後秦の制をついで僧正の名称が用いられた。この時代の僧官には,僧尼の裁判を仏教の戒律に従って行うなど,ある程度の自由性が認められていたが,唐代になると俗官が統制にあたり,中央僧官すら久しく置かれなかった。中唐には,中央に俗官の功徳使の下に左右両街僧録,地方に僧正,僧統等が置かれ,宋代に継承されたが,度牒(出家得度者であることの証明書)の発給などの業務は行政官がつかさどった。
明初に整った僧官制度が施行され,それによってますます国家の教団規制が強くなった。
執筆者:竺沙 雅章 新羅では,6世紀中ごろ真興王のとき国統・大都維那・大書省を置き,政官と称した。日本では624年(推古32)百済の僧観勒(かんろく)の奏上によって僧正,僧都を任じたのが始まりである。その後,645年(大化1)十師(じつし)に改まったが,律令制の施行にともない683年(天武12)僧正,僧都,律師からなる僧綱(そうごう)が成立した。これは中央の僧官であるが,701年(大宝1)諸国に国師が任ぜられ,地方の仏教界の統制にあたった。僧綱の構成員は,時代の経過とともに大僧正,僧正,大僧都,少僧都,律師に分かれ,国師は平安初期に講師(こうじ),読師に改称された。
→僧綱
執筆者:中井 真孝
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