仏教の出家修行者に対する総称。とくに男性を僧とよぶのに対し,女性は尼(あま)とよび,あわせて僧尼ともいう。〈僧〉とはサンスクリットのサンガsaṃghaに対する音写語で,僧伽(そうぎや)とも書き,衆,和合衆と訳す。サンガは元来,集団,共同体の意味で,修行者の集り,教団を指すが,中国では転じて個々の修行者を僧とよぶにいたった(その複数形をあらわす僧侶もまた,日本では個人を指す語に転化した)。
教団の構成員は出家修行者たる比丘(びく),比丘尼(びくに)と在家信者たる優婆塞(うばそく),優婆夷(うばい)の4種で,合わせて四衆とよぶ。また,修行者のうち未成年者を沙弥(しやみ),沙弥尼といい,女性で入団1年未満のものを式叉摩那(しきしやまな)とよび,これらを別出して七衆ともいう。比丘は満20歳に達し,具足戒を受けた者,比丘尼は同様な女性をいう。なお尼は比丘尼の語尾だけをとった略称である。比丘とは乞食者(パーリ語のビックbhikkhu)の意味で,仏教の修行者が元来,出家・遊行を旨とし,托鉢(たくはつ)すなわち鉢を持って食を乞うて生活する沙門(しやもん)であったことに由来する。修行者はまた,教団内の役割に応じて,上座(大衆を統率する),維那(寺務をつかさどる),阿闍梨(あじやり)(大衆の教育に当たる),和尚(弟子を養育する)等とよばれ,あるいは法師(在家信者へ説法。布教者),瑜伽師(ゆがし)(禅師。習禅をもっぱらとする者)などの別があった。また,修行向上の度合に応じて凡夫と聖人(しようにん)に分けられる。聖人位はさらに阿羅漢を最高位とする四向四果の八位に分けられる。凡夫位のうち,聖人位に近づいたものを賢位(四善根)として区別することもある。聖人は仏とならんで在家信者の供養をうけ,帰依・礼拝される資格があるとされた。これが仏法僧の三宝のうちの僧宝である。大乗仏教は元来,仏塔を崇拝する在家信者の間で成立したものと推定され,その指導者たちは自らを修行僧(声聞(しようもん))から区別し,仏と同じ悟りを目的とする者として菩薩(ぼさつ)とよんだ(大乗仏典は菩薩衆への帰依をもって僧宝への帰依とする)。しかし後には菩薩にも在家と出家,凡夫位と聖人位の区別が説かれ,また修行の階位として十地などが説かれるにいたった。密教も在家の行者を含むが,それだけに修行者の規定は明確でない。
執筆者:高崎 直道
もともと4人以上の出家者の集団を指したが,中国では1人でも僧といい,また仏教徒の総称としても用いられる。厳密には,得度した者が僧,具足戒を受けた者は大僧,出家して得度にいたらぬ有髪の修行者は童行,行者といった。僧は別に比丘,桑門,沙門,和尚,道人などさまざまによばれる。
中国に仏教が初めて伝来した漢代では,出家するのはほとんど渡来の外国人とその子孫であって,漢人の出家はまれであった。当時は出家するといっても剃髪するだけで,出家の儀式は整っていなかった。3世紀中ごろ戒律が伝訳され,これによって朱士行が漢人として初めて受戒し,以後,漢人の出家する者がしだいに多くなった。やや遅れて,女性の出家すなわち比丘尼もあらわれた。僧尼の数が激増したのは,西晋から南北朝にかけての時期(3~6世紀)で,東晋では西晋の6倍以上になった。こうして仏教教団が成立すると,教団の行事規範等を定めた僧則が道安らによってつくられ,教団を統轄する僧官が後秦の時から設けられた。
およそ僧伽は世俗の権力を超越した共同体であり,国家の支配から独立したものと認識されていたが,中国には仏教の伝来以前から万民の上に君臨する皇帝が存在していた。教団が大きくなると,必然的に,皇帝権とのあいだに摩擦が生じ,とくに沙門は王者を敬礼すべきか否かの論争がおこった。東晋の桓玄と慧遠との論争は有名である(《沙門不敬王者論》)。皇帝権が弱かった南朝では,教団は比較的自主性を保ったが,北朝では皇帝の権力が強く,僧は〈皇帝は当世の如来なり〉としてこれを礼拝し,その統制に服した。こうした国家との関係は後代になるほど強まり,唐代では,教団は中央政府の祠部の管轄下に置かれ,得度するには国家試験を受けて祠部の発給する度牒の交付をうけねばならなかった。さらに僧は一般戸籍とは別に,3年ごとにつくられる僧籍に登録され,度牒をもたず僧籍に名のない者は私度僧として摘発された。南北朝時代,僧尼の犯罪は殺人罪以上を除き,仏教の戒律によって罰したが,唐代には世俗の法律が適用された。僧が皇帝に対して自らを臣と称するようになったのも,唐代に始まる。
僧は本来托鉢によって生活を支え,財産をもつことは禁じられていたが,中国では私有が認められ,唐代の均田法には僧尼への給田規定があり,禅宗の清規(しんぎ)には亡僧の遺産分配の方法が記されている。僧のなかには,莫大な私財を蓄え,高利貸を営むなど,世俗の大地主大商人と変わらぬ者もいた。彼らの所有する土地には,寺田と同様,原則として課税されたが,僧には徭役免除の特典があった。そこで徭役や兵役を忌避する農民が争って僧になり,富民も税役を逃れるために子弟や奴婢を出家させた。国家にとって,僧が増えることは,それだけ生産者が少なくなり税収の減少をきたすことになるので,歴代王朝はたびたび僧の淘汰を試み,ことに唐の会昌廃仏(845)では,僧尼26万0500人を還俗させ農民に復帰させた(三武一宗の法難)。しかしこうした強硬策をとっても効果は薄く,その後も僧の志望者は減ることはなかった。〈行きづまり者僧になり〉との諺があるように,貧窮者にとって僧になることが一つの救いの道であった。とくに福建では,口べらしのために家に3人の成丁があれば2人か1人は必ず僧にしたという。一方,度僧は災難を逃れ福を得る功徳があり,家族の1人が出家すると一族すべて成仏できると信じられたので,富豪も度僧に積極的であった。もっとも12世紀,南宋になると,僧にも免丁銭(清閑銭)が課せられ,明代には徭役に当てられたので,かつての特典は薄らいだ。それでも僧になれば,食いつなぐことはできた。
僧を布教の面からみると,寺院に開設された講席にのぼり,僧俗を相手に得意とする仏典を講説する学僧は講師,法師といい,布教の中心的な役割を果たした。ほかに,経典の詠唱や梵唄に巧みな経師,唱礼師,作梵法師といわれる僧がいて,講席や法会を華やかなものにした。また民衆に対して,弁舌たくみに譬喩をまじえながら仏法を平易に説く唱導師,説法師がおり,村々を布教してまわる遊行僧,化俗(けぞく)法師とよばれる僧が活躍した。南北朝以来,造像を目的とした邑義,慧遠の白蓮社に始まるといわれる法社などの信仰団体が各地に結ばれ,その教化指導に当たる僧を邑師,社僧といった。こうした教化僧の活動によって,仏教は中国社会に深く浸透した。宋代になると,僧と社会との交渉はいっそう密接になり,招きに応じて在家に赴き,生日や忌日の読経をつとめることを職業とする僧もあらわれた。明初には,政令によって在家に赴けるのを瑜伽(ゆが)教僧に限り,禅僧,講僧は在家と接するのを禁じた(居士仏教)。教僧は赴応僧ともよばれた。こうした制度がつくられること自体,両者の接触が密であったことを示している。
執筆者:竺沙 雅章
日本では出家して仏門に入った男子を僧といい,比丘(びく),沙門(しやもん)または沙弥(しやみ)をも含めて用いられる。仏教が伝来した当初の僧は,ほとんど大陸からの渡来僧だったが,やがて出家者が急増し,624年(推古32)の調査で僧816人,尼569人を数え,651年(白雉2)宮中での一切経読誦のとき僧尼2100余人に達した。政府は増加する僧尼を統制するため,624年早くも僧尼の犯罪に科断権をもつ僧正(そうじよう),僧都(そうず)の設置と,僧尼と諸寺の実態を調査し,これがのちに制度化されて僧綱制(そうごうせい)(僧綱)や僧尼令(そうにりよう)に継承された。僧尼令は僧尼の寺院生活についての禁制と罰則からなり,違犯者は還俗(げんぞく)させられて律によって処断された。また,僧尼は寺に寂居して国家や天皇の安穏を祈り,所定の寺院以外や山林での修行も許可が必要で,民間への宗教活動はきびしく禁じられた。正規の僧尼になるための得度(とくど)と受戒の権限は国家の手にあり,僧尼の資格は治部省の玄蕃寮が発行する度牒(どちよう)によって得られ,仏教側には僧尼養成の主体性は最初からなかった。このことは,初期の仏教がつねに国家への従属,政治の支配を前提に存在したことを語っている。また僧になると戸籍をはずされ,課役を免除されたので,僧尼の増加は課役負担者の減少をまねくことになった。律令国家が僧尼資格の決定権を留保しつづけたのはこのためでもあった。だが,国家や貴族が仏教を独占し,民間への布教をとめることは結局のところ不可能だった。農民を妖惑したという理由で,政府が699年(文武3)役小角(えんのおづぬ)(役行者)を伊豆に流し,717年(養老1)行基らを弾圧した事件は,仏教が民間に流布し,政府がこれを極度に警戒したことをよく示している。しかし,現実には,8世紀以降公民層の分解が進行するなかで,正規の手続をしないで出家した私度僧(しどそう)が輩出し,彼らは民間で法を説き,諸国を遊行(ゆぎよう)し,あるいは在地で妻子を養って俗人と変わらない生活を営んだ。
平安時代になると国家による僧尼の統制はしだいに弱くなり,各宗の教団や寺院の単位で〈式〉や〈起請〉が出され,僧の修学や修行,生活規範が示された。最澄の《山家学生式(さんげがくしようしき)》や868年(貞観10)の〈禅林寺式〉,970年(天禄1)良源が定めた〈二十六箇条起請〉などが有名である。起請や禁制による僧尼のあり方の規制は,中世の新仏教各派や諸寺にも受けつがれ,それぞれ独自の僧尼の養成がなされた。だが,近世の幕藩体制下では,一転して幕法や藩法で権力側から課役免除を伴う僧尼の増加制限,僧尼の実生活の監視などの規制が強まり,これを受けて各宗内で僧尼の生活が細部まで定められた。
ところで,いつの時代も国家や教団が僧の生活についてきびしく禁じたのは,殺害や盗みや財産横領などの犯罪行為,武力の行使といった俗法にふれることのほか,仏法の禁ずる姦淫の問題があった。すでに平安中期のころ,清僧(せいそう)は少なく,女犯妻帯の僧が多くなった。すなわち,大寺院では組織の分化がすすみ,衆徒大衆(しゆとだいしゆう)と総称される堂衆(どうしゆう)や行人(ぎようにん)などの下級の僧侶集団が形成され,彼らは妻子を養い,武力をもち,ときには荘園の経営や物資の輸送や商行為まで営むようになり,寺院の周辺や山麓の里は彼らの集住する拠点となって繁栄した。寺院の経営にかかわる別当クラスの僧も妻帯してその職(しき)を継承し,また学侶(がくりよ)とよばれた上級の僧も例外ではなく,天台密教の一部の流派では,息子を真弟子(しんでし)とよんで自分の血族に秘法を伝えていた。僧の恋愛や妻帯や女犯は《今昔物語集》《古事談》《沙石集(しやせきしゆう)》などの説話文学にしばしば登場し,公然の秘密だった。前近代において,教団として正式に僧の妻帯を認めたのは,非僧非俗の立場をつらぬいて念仏を説いた親鸞の浄土真宗であった。親鸞の血をついだ子孫が,代々本願寺の法嗣となり,末寺でも僧侶は家族と生活をともにしながら弘通(ぐづう)した。この宗派の中・近世の村落の道場が,〈毛坊主(けぼうず)〉と呼ばれた半僧半俗の篤信者により運営されていたことはよく知られるところである。
一方,古代・中世において,各宗教団の外縁部には,聖(ひじり)や験者とよばれた民間の遊行僧の活躍が目だった。彼らは山々をめぐり,民間で修法を行い,ときには勧進聖(かんじんひじり)となって寺や仏像を修造し,橋をかけ,経を奉納するなどの宗教活動を行った。彼らの勧進活動は,古代・中世を通じて,諸寺の経済を支える重要な役割を果たした。東大寺の重源(ちようげん)を頂点とする大仏勧進聖,高野山の高野聖(こうやひじり),念仏の名帳勧進をした融通念仏聖らが有名な例である。橋のたもとで通行人に杓を差し出す橋勧進や,勧進帳,奉加帳,勧進鉦鼓,鉦架,杓などを携えた聖の姿は,《三十二番職人歌合絵巻》ほかの絵巻物や社参図などに伝えられている。だが,これらの聖たちも近世になると,社会の最下層の存在として蔑視され,三昧聖(さんまいひじり)集団,鉢たたき,千秋万歳法師,虚無僧(こむそう)などの僧形の漂泊の芸能者と同様に位置づけられ,史上での活躍は衰えた。
執筆者:藤井 学
スリランカから東南アジア大陸部に広まった上座部仏教は,戒律を重視する宗教である。戒律は仏教の齢であって,仏教は戒律とともに存続するともいわれている。戒律を守ることによって仏教の存続発展に貢献する修行者が僧である。したがって破戒行為を行った僧は,修行生活を共にし得ない者として僧の団体であるサンガから追放される。戒律は異性との交わりを禁じているので,僧は妻帯することが許されない。保守的な上座部仏教徒が,妻帯僧の存在を許容する一部の大乗仏教を仏教として承認しない理由がここにある。こうした戒律観は,上座部仏教諸国一般に広まっている観念で,今日でも僧の破戒行為に対する社会の批判は厳しい。世俗的欲求に抗しきれない僧は,ふつう還俗する。還俗僧についての社会的評価は,これをやや否定的に見る見方から中立的態度まで,国により社会によって一様ではないが,一般に背教の意識はなく,還俗は比較的容易に行われる。タイの北部や東北地方に見られるように,僧の経験者が還俗後も一定の称号を冠して呼ばれ,高い社会的威信を享受する場合さえある。とりわけ農村部においては,還俗僧が民衆仏教儀礼のなかで指導的役割を演じ,サンガと一般社会を媒介する重要な機能を果たすことが多い。戒律を正しく守る僧の集り(サンガ)は〈福田puññakkhetta〉と呼ばれる。そこにまいた種は功徳puññaの実を結んで人びとに喜びをもたらすと信じられる。世俗的な経済活動をすべて放棄して出家した僧が安んじて修行生活に専念できるのは,清浄なサンガを福田と信じる在家の信者が,功徳を得ようと自発的にサンガに対して物質的支持を与えるからにほかならない。上座部仏教徒は僧の世俗化を忌避する。それは世俗化によって僧の持戒が失われ,持戒の喪失によってサンガがその福田としての価値を失い,ひいては福田思想を軸として成立している民衆の実践仏教にも大きな障害を与えることが予想されるからである。
僧はまた民衆仏教における儀礼の執行者としての役割をもつ。上座部仏教はしばしばパリッタ仏教であるといわれる。パリッタはパーリ語で書かれた護呪経典である。民衆は僧によるパリッタの読誦が幸福を招き,災禍をはらう霊力をもつと考え,その読誦の席に連なることを好む。僧が葬儀に際し読経して死者の冥福を祈ることは日本の場合と同じであるが,上座部仏教国においては,家屋の新築,結婚式などの祝儀に際しても,施主の功徳行のひとつとして僧侶を招いて食事を供養し,パリッタの読誦を行うことが多い。僧は定期的に剃髪し,三衣と呼ばれる黄色の衣をまとい,寺院に起居する。上座部仏教の僧は,たとえ一時的であっても,黄衣を脱いで一般人の服装をすることは許されない。剃髪,黄衣着用,寺院止住が持戒のシンボルと考えられているからである。僧となるためには一定の手続が必要である。得度の儀式は,資格をそなえた親教師(しんきようし)により4人以上の比丘の同席の下に,定められた規則にしたがって区切られた場所(シーマー)において執行されなければならない。タイのように,これらの条件が国家によって定められている場合には,その条件を満たさない得度(私度)は無効で,私度僧はいっさい認められていない。
僧の仏教教理に関する知識ないしパーリ語の学力の水準を一定以上に保つため,各国とも各種の試験制度を設けている。ミャンマーのように,最高位の試験合格者に特別の社会的優遇を与えている国もある。またタイのように,ある段階の試験合格者に一般学校における特定学科の教員資格を認める国もある。試験内容はもっぱらパーリ語三蔵とその注釈書についての知識を問うものであるが,タイにおいては,近年における受験者数の漸減傾向に対応するため,試験内容に世俗的教科目を加えるなどの試行が行われている。
執筆者:石井 米雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
サンスクリット語サンガSaghaの音訳僧伽(そうぎゃ)の略。衆と意訳し、団体を意味するが、とくに仏教の出家修行者の教団をさす。信者を含めた仏教徒を僧とはいわない。4人以上の修行者が集まったとき僧伽となるが、しかし日本では、1人の坊さんをも僧、僧侶(そうりょ)とよぶ。インドでは出家者を比丘(びく)とよぶ。比丘とは食を請う人の意で、比丘の団体が僧(比丘僧)である。女性の修行者を比丘尼(びくに)といい、その団体を比丘尼僧という。日本では、出家した女性を尼(あま)ともいう。僧伽の理想は平和を実践することであり、そのため和合僧とよばれる。僧は仏・法・僧の三宝の一つとして、帰依(きえ)尊崇の対象であり、さらに教法の実践者・伝持者であるから、僧がなくなれば仏教も消滅するわけである。
[平川 彰]
原始仏教時代には、僧は現前僧と四方僧とに区別されていた。各地区の比丘が集まって形成する僧が現前僧であり、現前僧は多数ある。それらの現前僧の全体、さらに未来の比丘までも含めた僧が四方僧で、常住僧ともいう。
四方僧は理念としての教団であり、釈迦(しゃか)の制定した戒律(教団法)によって象徴される。さらに教団の財産も四方僧の所有となっている。寺の土地、建物、寝台などの備品、什器(じゅうき)、寺内の樹木などは四方僧物である。現前僧の比丘たちはこれを利用することはできるが、売り払うなどの処分は許されず、将来永久に伝えていくべき財産である。ゆえに常住僧物(什物)という。さらに四方僧物は、現前僧の比丘たちが公平に利用すべきであり、他地方から到来した比丘でも、自動的にその現前僧の成員になり、寺内の居室や寝具などの使用の資格をうる。十方(じっぽう)の比丘の使用に開放されているので、十方僧物ともいう。しかし仏塔のある土地は塔地であり、これは仏に寄進されたものとして、仏物となり、僧はこれを受用することはできない。仏塔に布施されたものは仏塔の守護者が受用する。
理念としての四方僧は教団法であり、これは二つに分かれる。一つは戒律であり、比丘に約250条、比丘尼に約350条ほどある。これは釈迦の制定したものとして絶対の権威をもち、弟子たちの改変できないものである。第二は教団を運営する規則であり、これを羯磨(こんま)という。約100種の羯磨があり、現前僧はこの羯磨の規則によって集会し、議事を決定し、僧を運営する。これらの規則は、現前僧を支配するのであり、現前僧を超えたものである。
現前僧は、一定の区域内の比丘で構成する僧伽である。区域の広さに決まりはないが、集会に便利な範囲で結界して決定する。その結界内に入った比丘は自動的にその現前僧の成員となる。現前僧は四方僧物を公平に受用して生活する。信者から現前僧に布施された食物や衣服は平等に分配し、僧地の華果(けか)樹から得た華(はな)や果実も現前僧物となる。比丘はこのほかに個人で、信者に食物や衣服を乞食(こつじき)してよい。このような生活基盤にたって修行生活をなす。比丘が亡くなった場合、亡比丘の財物のうち、住居や寝台などの重物があれば、四方僧物に入れ、三衣(さんえ)(下衣(げえ)、上衣(じょうえ)、外衣(げえ))は看病比丘に与え、残りの軽物は現前僧で分配する。
僧に入団する希望者は、親族妻子などの世俗の縁を捨て、財産、名誉、階級を捨て、釈迦の弟子となり、入団試験を受けて比丘となる。この入団試験を具足戒(ぐそくかい)羯磨といい、受ける場所を戒壇という。僧には階級はなく、平等の世界であり、出家してからの年数(法臘(ほうろう))によって、長幼の秩序をたてる。入団のとき和尚(おしょう)(ウパッジャーヤ、親教師)を決める。和尚は新比丘を教育する師であり、和尚と弟子は生活をともにし、助け合い、父子のような関係を保つ。そのほか経典や戒律、坐禅(ざぜん)などを教える師を阿闍梨(あじゃり)(アーチャリャの音訳)という。20歳未満の者は比丘になることは許されず、入団を希望する者は十戒を受けて沙弥(しゃみ)となる。沙弥は比丘の指導を受け、比丘僧伽のなかで生活する。女性の場合は沙弥尼となる。沙弥尼と比丘尼の間には2年間の正学女(しょうがくにょ)の期間がある。以上を出家の五衆という。
現前僧は、戒律の条文と教団運営規則(羯磨)とによって、自治的に運営される。これを支配する上の教団や教団の支配者はない。現前僧は事が起こると全員を招集し、羯磨作法によって問題を議し、全員の総意によって決定する。この会議の議長を羯磨師という。特別の場合には多数決(多人語)も採用するが、原則としては全会一致である。この議決には全員が服従しなければならない。定例の集会は、半月1回現前僧が集会して、比丘たちが戒律を守っていることを確認する布薩(ふさつ)の集会(布薩羯磨)と、毎年雨期に3か月一か所に定住して修行する雨安居(うあんご)がある。雨期には遊行(ゆぎょう)が不便であるため、遊行をやめ寺院に止住し、戒律や坐禅などを集中的に学ぶ。3か月を経ると安居の解散式を行い、各自遊行に出発する。この解散式を自恣(じし)羯磨という。僧の決定に服従しない比丘や戒律を破った比丘に罰を与える羯磨や、現前僧の役員選出羯磨、現前僧物の分配羯磨などは、布薩のとき付随して行われるが、僧伽に諍(あらそ)いが起これば、臨時に現前僧の集会がなされる。以上の原始教団時代の僧の戒律や羯磨は、現在でもスリランカ(セイロン)、ミャンマー(ビルマ)、タイなどの南方仏教で実行されており、中国では律宗が中心になって実行した。
[平川 彰]
中国に仏教が伝わったのは西暦1世紀であるが、完全な戒律が伝わったのは5世紀である。それ以後、『四分律(しぶんりつ)』によって、受戒、布薩、安居などの戒律が整備され、とくに道宣(どうせん)(596―667)によって南山律宗の教理が確立し、中国仏教十三宗の僧はすべて律宗の規則によって、出家生活を厳守し、さらに『梵網経(ぼんもうきょう)』によって大乗戒を受けて修行した。ただし僧の出家生活を維持するために、教団は国王の帰依(きえ)や経済的援助を受けたので、反面、僧団は国王の干渉を避けられなかった。初期の禅宗はこれを嫌い、山野に隠れて自給自足の修行生活をなし、中国人に適した修行規則をつくり、「清規(しんぎ)」とよんだ。これは中国人に適した仏教であったので、禅宗は中国でもっとも広く行われた。
人民共和国になって、仏教は迫害を受け、僧は還俗(げんぞく)し、寺は工場や学校に転用されたが、紅衛兵事件の終息後は、仏教復興が計られ、名刹(めいさつ)寺院も復興し、僧の数も増大している。
[平川 彰]
奈良時代に鑑真(がんじん)が唐より来朝して、東大寺に戒壇をつくり、具足戒羯磨を行ってから、比丘ができ、僧が成立した。唐招提寺(とうしょうだいじ)の招提とは招提僧、すなわちサンスクリット語のチャツルディシャ・サンガの音訳であり、四方僧の意味である。鑑真は唐招提寺によって四方僧の制度を確立しようとして、律宗をおこした。しかし律宗はまもなく衰え、自治的な僧伽は日本には育たなかった。日本仏教は聖徳太子によって基礎を置かれ、国家仏教の性格が強く、国家の統制のもとに発展した。とくに最澄(さいちょう)は比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)をおこし、ここに大乗戒壇を設け、国宝、国師、国用などの菩薩(ぼさつ)僧を養成しようとしたが、これは古来の二百五十戒によらず、『梵網経』の説く戒のみによって教団の秩序を保とうとするものであり、国家中心の教団観であった。その後、僧になるにも受戒は形式的になり、しかも鑑真来朝以前にも不完全な形で僧は存在したから、日本仏教の出家主義はきわめて不完全であり、戒律の衰えとともに、明治以後には僧の妻帯も公然となり、僧俗の区別がなくなった。
なお、中国や日本では国家が仏教教団を行政組織に組み入れて支配するために種々の制度を設け、道僧格(中国)や僧尼令(日本)などの法律を制定し、さらに僧尼を取り締まるため僧官を任命した。また日本特有のものとして、僧位の制がある。それは僧の学問や徳行、年数などに応じて朝廷から位が与えられたものであるが、のちには僧官と僧位は混同して用いられた。
[平川 彰]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…狭義では仏教の僧を意味するが,しばしばキリスト教における聖職者の意味でも用いられてきた。また,イスラムにおける宗教指導者(ウラマー)や神秘主義者(スーフィー)を〈イスラム僧〉などとよぶ場合もみられるが,イスラムにおいては,原理的に神と人間の間の媒介を行うことを職とする人間の存在や俗人と聖職者といった区別を認めていないので,これを僧(僧侶)とか聖職者とよぶことは適当ではない。…
…仏教は本来釈迦を起点として展開するものだけに,それ自体有機的な発展をとげたものである。古来〈仏〉〈法〉〈僧〉の三宝(さんぼう)は仏教の基本大系であり,時・空間を超えた広がりをもつ仏教美術もまた,これを軸として考えると,統一的にとらえることができるだろう。 釈迦の求め得たものは〈法〉であり,法こそは仏教の中核をなすものである。…
※「僧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新