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1931年7月結成された中間派主導の社会民主主義政党。1930年総選挙での無産政党の惨敗(当選5名)がきっかけとなり,全国大衆党,労農党,社会民衆党の分派である三党合同実現同盟の合同により結成された。書記長麻生久。31年府県会選挙での当選者13名。翌年の総選挙での当選者2名。日本労働俱楽部参加をめぐって,有力支持団体の全国労働組合同盟(全労)の内部が分かれ混乱した。満州事変がおこると労農派の要求で対支出兵反対闘争委員会をつくり帝国主義戦争反対を唱えたが,具体的な運動にはとりくめなかった。国内に戦争支持熱が広がる中で,全労の今村等や松谷与二郎らが党の反戦方針に反対し国家社会主義に転向して脱党し,日本労働組合総連合も離脱した。このため麻生ら党幹部は党の反戦方針を変更し,社会民衆党との合同で危機をのりきろうとし,32年7月社会大衆党を結成した。
執筆者:吉見 義明
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無産政党中間派と左派の結合体。無産政党(労働者・農民など無産階級の利益を代表する戦前の合法的な政党)の合同機運が高揚するなかで、1931年(昭和6)7月、中間派の全国大衆党(1930年結成、議長麻生久)と左派の新労農党(1929年大山郁夫らが結成)の結集を軸とし、麻生久(あそうひさし)を書記長とする党員約5万7000人の全国労農大衆党(全労党(ぜんろうとう))が結成された。全労党は党の政策に帝国主義侵略戦争反対を掲げ、満州事変に直面して堺利彦を委員長とする対支出兵反対闘争委員会を設けるなど、日中戦争突入に抵抗する姿勢を示した最後の無産政党となった。なお、結党大会にあたって堺利彦から「僕は病床にゐて諸君の帝国主義戦争反対の叫びの中に死ぬ事を光栄とす」とするメッセージが紹介されている。翌1932年7月、右派の社会民衆党と合同することによって統一無産政党として社会大衆党を誕生させたが、社会大衆党において、もはや帝国主義戦争反対の姿勢が示されることはなかった。
[高橋彦博]
昭和初期の中間派無産政党。全国大衆党・労農党,社会民衆党の分派である三党合同実現同盟の合同により,1931年(昭和6)7月結成。書記長麻生久。満州事変に対し労農派の主導で帝国主義戦争反対を唱えたが,党の反戦方針に反対して国家社会主義派の脱党者が続出し,32年の総選挙でも惨敗した。このため党幹部は反戦方針を変更し,社会民衆党と合同して7月に社会大衆党を結成,単一無産政党を実現した。
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