八代郷(読み)やつしろごう

日本歴史地名大系 「八代郷」の解説

八代郷
やつしろごう

和名抄」東急本は八代郡五郷の最後に置き「也都乃之呂」、高山寺本は最初に置いて「也都之呂」と訓を付す。名博本も当郷を先頭に置く。郷域は現東八代郡八代町みなみきた(江戸時代の南八代村・北八代村)一帯に推定されているが、北に山梨西郡の石禾いさわ郷、東に山梨東郡の井上いのえ郷が相接し、八代・山梨二郡の郡界も明確にはわからない。しかも「和名抄」東急本国郡部に「国府在八代郡」とみえることから、当郷に国府が置かれた可能性も強く、現東八代郡御坂みさか国衙こくが(旧英村)をその遺称とみて、国府所在地に当てるのが通説である。


八代郷
やつしろごう

現八代町みなみ・北一帯に比定され、高家こうか増利まさりも郷内とする見方もある。八代庄に包括されたと考えられるが、それを明確にする史料は確認されていない。至徳四年(一三八七)に記された「塩山抜隊和尚語録」所収の禅照逆修文に「甲州路八代県」とみえ、同地居住の禅照禅女が大乗経五部を書写している。永禄四年(一五六一)の番帳の二〇番に「八代の禰宜」とみえるのは当地の熊野神社神職にあたる。


八代郷
やつしろごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本をはじめ諸本とも訓を欠く。「日本地理志料」は高岡たかおか郷の八代北俣やつしろきたまた村・八代南俣やつしろみなみまた(現国富町)に比定する。「大日本地名辞書」は本庄ほんじよう村・木脇きわき村・八代村(現同上)に比定し、穆佐むかさ郷の北、あや(現本庄川)谷口に位置するとする。「日向国史」は八代村に比定する。


八代郷
やつしろごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、甲斐国八代郡八代郷に也都之呂(高山寺本)の訓がある。現成田市の八代を遺称地とすれば、ヤツシロであろう。郷内には「延喜式」神名帳に印旛郡一座としてみえる「麻賀多神社」と同名の社が祀られるが、印波国造の初祖伊都許利命を祀るとされる。


八代郷
やしろごう

鎌倉時代の国衙領。古代の気多けた狭沼さの(和名抄)うち、国衙領狭沼郷と八代庄を除いた地域で、円山まるやま川支流の八代川上流域に比定される。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文に、「八代郷 十九丁二反二百三分」とみえ、「公文八木三郎左衛門入道真阿 御家人」「八幡宮神人免三丁」の注記があり、田地の内訳は、常荒流失一町一反六九歩、仏神用已下三町二反八一歩、人給二町二反、定田一二町七反三一二歩である。


八代郷
やしろごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。八代は「やしろ」とよみ、社・屋代の意味とされる。遺称地はないが郷名のもととなった神社を「三代実録」貞観一五年(八七三)四月五日条にみえる国庁裏こくちようり神の社と解し、同社のある現倉吉市のうちの旧やしろ村地区を中心とする地域、国府こう川下流左岸地域一帯に比定される(鳥取県史)


八代郷
やつしろごう

「和名抄」に「八代」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、今其名ヲ失ス、思フニ今ノ島崎村ナリ」とあり、弘安・嘉元の大田文などから考えて現行方郡牛堀町島須しますに比定する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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