中国,清代初期の画家。明朝王室の後裔で,寧藩弋陽(よくよう)府の王族として南昌(江西省)に生まれる。名は中桂とも統(とうりん)とも考証されるが,朱耷(しゆとう)が通行している。字は雪个(せつこ)。明の諸生となったが,1645年(順治2),20歳のときに明朝が滅んで寧藩に清軍が侵攻すると,南昌東南の進賢県介岡の灯社に隠れて僧となり,のち師の宏敏を継いで奉新県新興郷の耕香庵の法嗣となる。法名は伝綮(でんけい)。その後,55歳のとき,臨川県令胡亦堂(こえきどう)に召喚され抑留中に発狂し,南昌に戻り還俗。个山,人屋,驢山(ろざん)などと号して画作を始め,59歳ごろより八大山人を号し,花卉(かき),松石,鳥魚などの小幅に個性的画風をひらき,晩年は山水や墨荷を得意とした。同世代の文人邵長蘅(しようちようこう)(1637-1704)の会見にもとづく《八大山人伝》(1688ころ)がある。作例は,早期の伝綮の落款がある《写生冊》(1659。台北故宮博物院)。晩年の傑作に《安晩冊》(1694。京都泉屋博古館)などがある。詩書にも秀でていたが,その詩は神秘的かつ風刺に富み,書は禿筆でもって秀健な書風であった。南昌郊外の道観青雲譜が八大山人記念館である。
執筆者:新藤 武弘
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…苦悩や絶望すらも自己の享楽としたオプティミズムと国力の最隆盛期を迎えた商業都市の粋な美しさ,既成の画法にとらわれぬ奔放で野生的な筆描が彼らの特色である。また康熙年間は八大山人,石濤(せきとう),傅山(ふざん),徐枋(じよぼう)など前王朝の遺民が画家として活躍した時期でもある。なかでも八大山人と石濤の2人は明朝宗室の末裔にあたり,共に僧籍に入ったが,既成の権威を無視した独自の表現により,亡国の憂憤を画面にぶつけることで,世俗を超越したきわめて独創的な画風を展開した。…
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