中国,明代後期の文化人。字は文清,また文長,号は天池,青藤など。いまの浙江省紹興県の人。王守仁(陽明)の弟子季本に師事,文官の地方試験には8度も落第,倭寇討伐の総督胡宗憲の私設書記を5年,のち発狂して自殺未遂を重ね,妻を殺して獄中に7年を過ごした。かくも数奇な生涯をもたらした奔放不羈の精神と不遇貧困の生活はその文学芸術のすべてにも作用し,詩では真情の流露のなかに,ときとして中唐の李賀に似た鬼気せまる空想や宋の蘇軾(そしよく)に似た清新な比喩をまじえ,盛唐詩の模倣という,李攀竜(りはんりゆう),王世貞らによってリードされた当時の詩界の流行には染まらなかった。書画に秀でたほか,さらに戯曲四部作《四声猿》も残している。生前はほとんど無名に近かったが,死後数年目に袁宏道がその詩文集を編集,〈徐文長伝〉を著して,李攀竜,王世貞らの古文辞派に反対する有力な先人として世に紹介した。
執筆者:松村 昂 みずから〈書が第一,詩がこれに次ぎ,文はこれに次ぎ,画はまたこれに次ぐ〉と称したといわれる徐渭は今日では画家としての評価も高く,宋代以来の花卉(かき)雑画の世界に水墨による新たな表現を切り開き,清代における花卉雑画の盛行を導いた画期的な存在とされる。代表作に《花卉雑画巻》(南京博物院),《花卉雑画巻》(1575,東京国立博物館),《花卉雑画巻》(1591,京都,泉屋博古館)などがあり,文集《徐文長文集》(1614)等,多くの著作が残る。
執筆者:小川 裕充
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中国、明(みん)代後期の詩文書画をよくした文人。山陰(浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)県)の生まれで、字(あざな)は文清、のち文長といい、天地と号したが、青藤(せいとう)、田水月(でんすいげつ)そのほか別号が多くある。多方面に優れた才能を示し、自らも書が第一、詩が二、文が三、画が四といったが、現在は画家としての評価がもっとも高い。詩文のほか脚本集『四声猿(しせいえん)』など戯曲の創作でも知られ、また小説『雲合奇蹤(うんごうきしょう)』は江戸時代の1752年(宝暦2)に翻訳され、日本では『通俗元明(げんみん)軍談』として刊行されている。画は水墨に徹し、花卉(かき)および蟹(かに)や魚などの雑画に優れ、『花卉雑画巻』(ワシントン市フリーア美術館、東京国立博物館)などの傑作を残している。その画風は、特定の師をもたず、伝統にとらわれずに、絵画の捨象性、水墨の偶然性を追究して、清(しん)代の花卉画の先駆をなした。その生涯は数奇を極め、早く父を失い、青年期には家が没落し、妻に死なれ、才能をもちながら郷試(きょうし)に落ち続ける(8回目で断念)などの不運に付きまとわれた。壮年期に倭寇(わこう)と戦った胡宗憲(こそうけん)(浙江省総督)に文才を認められ、信任されたが、5年後に胡宗憲が失脚し獄中死するに及び、精神に異常をきたし、三度自殺未遂し、さらに後妻を嫉妬(しっと)から殺害して7年間の獄中生活を送った。出獄した53歳以降は諸方を流浪し、晩年郷里に隠棲(いんせい)し、この間に多くの水墨花卉の傑作を描いたが、最後は藁(わら)を敷いて寝るなど困窮のうちに没した。著述に『徐文長集』『南詞叙録』などがある。
[星山晋也]
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