中国,江西省の省都。人口170万(2003)。市域には新建,南昌など4県を含む。省の北部,贛江(かんこう)が鄱陽湖(はようこ)に注ぎこんでつくる湖盆の三角州の中心にあり,全流域を扼する位置にある。付近では新石器時代末期には稲作をおこなう集落が広がり,中原の殷文化の影響も受けていた。当時の鄱陽湖は今より範囲も狭く,南昌の前面には広く沖積平野が開けていた。春秋時代には楚の領域に属し,国を支える重要な後背地の一つであった。秦では九江郡に属し,漢になってこの地に南昌県が設けられ,前面の低地にも陽(きようよう)県等が設けられたが,最も安定した条件にある南昌に予章郡の郡治が置かれ,江西地域の中心地となった。六朝時代を通じてこの体制は維持され,隋には郡は洪州,県は予章と改められ,ついで唐代以後も名称の変動はあったが,明初に南昌府とされ清末に至った。その間,五代の南唐のときにはここに南都が置かれたこともあった。
この地は鄱陽湖盆地の中心にあり,水陸両道を利用して東西南北いずれへも進出できる位置にあり,とくに東は杭州,北は南京の長江(揚子江)下流域の中心地,西は武昌の長江中流域の中心地を,ほぼ等距離でうかがい,また南は南嶺を越えて広州と結ばれるという,華南全域を鎮圧する要衝であった。たとえば隋末には操師乞,林士弘などの地方反乱軍が相次いでここに拠点を築き,唐の大将李靖が攻撃占拠して華南を平定した。また元末,江西,福建,浙江にかけて勢力をもった陳友諒は,南昌をめぐって朱元璋と争い,結局鄱陽湖の戦に勝った朱元璋が江南での主導権を得た。このような交通上の位置,政治的重要性から,江西全域の経済中心としても発達し,米,木材,陶磁器,紙,夏布,苧麻(ちよま),茶等,江西の特産品の集散地として商業が栄え,市内には各種の問屋が軒を並べた。
清末から近代にかけても南昌は長江中下流域において独自の重要性をもった。長江の主流からはずれているために条約による開港場とはならなかったが(九江は天津条約で開港された),天津条約による内地布教権をもとにフランスの宣教師が江西布教の中心として南昌に進出しようとし,1861年(咸豊11)と1906年(光緒32)に紛争(南昌教案)を起こしている(仇教運動)。また1927年8月1日には,共産党の指導の下に,南昌駐在の国民革命軍の一部が,南京の蔣介石政府,武漢の汪兆銘政府に対して反乱を起こし,中国共産党史の上では,共産党が初めて独自の革命戦争を展開した運動と評価され〈八・一南昌起義〉と呼ばれている(南昌蜂起)。解放後は省都として工業開発がはかられているが,資源の不足,幹線鉄道から離れていることなどから相対的に遅れている。
市内には南昌起義総指揮部旧址など,南昌蜂起に関連した革命遺跡が多く残されているほか,唐太宗の弟滕王(とうおう)李元嬰が洪州都督のとき建てたという滕王閣,唐・宋以来名勝の地として有名な百花洲をはじめ,南朝に創建されたという佑民寺,普賢寺,大安寺などの寺院,孺子亭,南浦亭,縄金塔などの古跡があり,歴史の古い都市の豊かさを示している。
執筆者:秋山 元秀
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中国、江西(こうせい)省北部にある地級市で同省の省都。贛江(かんこう)下流域に位置し、北東に鄱陽湖(はようこ)を臨む。市は、東湖(とうこ)、西湖(せいこ)、青雲譜(せいうんふ)、湾里(わんり)、青山湖(せいざんこ)、新建(しんけん)の6市轄区からなり、南昌、安義(あんぎ)、進賢(しんけん)の3県を管轄下に置く(2016年時点)。人口510万0800(2013)。省の政治、経済、文化の中心で、交通の中枢となっている。漢代に南昌県が設置され豫章(よしょう)郡の治所となってから、隋(ずい)に至って洪州(こうしゅう)の治所に改められ、以後、南宋(なんそう)では隆興府(りゅうこうふ)、元では隆興路(のちに竜興路)の治所が置かれた。明(みん)代に南昌府の治所となってからは、清(しん)もこれを継承して、明清両代、江西省の省都であった。
新中国になってから鉄鋼、電子、自動車、トラクター、機械、化学、紡績、製紙などの工業が発達した。周辺の農村部では、米、小麦、綿花、ラッカセイ、ゴマ、ナタネ(アブラナ)、大豆、サツマイモを産し、鄱陽湖での水産業も盛んである。市域南部を滬昆(ここん)線(上海(シャンハイ)―昆明(こんめい))が東西に走り、向塘(こうとう)で北京(ペキン)から南昌を経由して九竜(きゅうりゅう)(香港(ホンコン))に延びる京九線と交差する。また水運の便もよく、贛江、撫河(ぶが)、錦江(きんこう)などによって省内の主要都市と結ばれるほか、鄱陽湖によって長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))とも連絡しており交通至便である。市北部には1999年開港の南昌昌北国際空港がある。
中国の革命運動史のうえで重要な役割を演じた都市の一つで、1927年8月1日、周恩来(しゅうおんらい)、朱徳(しゅとく)、賀竜(がりゅう)らは反革命化した武漢(ぶかん)政府と決別すべく、南昌に駐屯していた部隊を率いて武装蜂起(ほうき)を行った(南昌暴動)。蜂起は失敗したものの、これが中国共産党が自己の軍隊をもった最初であり、人民解放軍の起源として、現在、八・一建軍節(建軍記念日)が設けられている。新中国成立後、市には南昌八・一起義(蜂起)記念館や江西省革命烈士記念堂などの革命戦争を記念する建築物が建てられた。
市の内外には名所・旧跡が多く、百花洲、東湖などの名勝がある八・一公園や、明末清初の画家八大山人(朱耷(しゅとう))が隠棲(いんせい)した道観である青雲譜が有名。
[河野通博・編集部 2017年2月16日]
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