中国,明代後半を代表する書画家。松江(上海市松江県)の人。字は玄宰。思白,香光,思翁などの号をもつ。万暦17年(1589)の進士。官位は南京礼部尚書にまで昇進,晩年は官僚生活を退き,郷里で没したと推定される。死後,文敏と諡(おくりな)を賜った。高級官僚であり,この高い官位が,生前の書画における名声をひきあげたことも否定できないが,彼の芸術の真価は,明末以降の中国書画壇に決定的な影響を及ぼした。
書家であり画家であった董其昌は,書画の鑑識や評論の方面でも理論的な指導者であった。絵画における南北二宗論の提唱(つまり南宗画を推称し,北宗画を貶(おと)す)はことに有名で,彼以前の文人画の活動をしめくくり,以後の活動の指針となったものとして高く評価されている。董其昌の絵画制作は,二宗論を実作に移したもので,北宋より元に至る彼が南宗系とみなす古典的な大画家たちの画風を単純,明快な構成要素に分解し,誰にでも用いられる造形的単位をつくり,これを画面上に再構築するというきわめて近代的なもので,そこでは抽象性と自然らしさが微妙なバランスをとっている。書家としての董其昌は,王羲之の書風を学んでいるが,元の趙孟頫(ちようもうふ)が王羲之の形態的側面に接近したのに対し,その自由なリズムの本質に迫ろうとした感がある。董其昌の書画両面における功績は〈芸苑百世の師〉とたたえられたが,一方では高利貸をし,利殖をはかり民衆の恨みを買って焼打ちにあうなど,人間的側面はかなり複雑であった。
→南宗画
執筆者:戸田 禎佑
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中国、明(みん)代の官僚で、明代後半を代表する文人画家、書家。華亭(江蘇(こうそ)省松江県)の人。字(あざな)は玄宰(げんさい)。号は思白(しはく)、香光、思翁など。文敏と諡(おくりな)される。1589年(万暦17)の進士。就官と退隠を繰り返したが、官位は南京(ナンキン)礼部尚書にまで昇った。彼は当時第一の画家・書家と称されたが、理論的な指導者としての存在も大きく、中国画を南宗(なんしゅう)画と北宗画に分ける南北二宗論を説き、南宗画を尚(とうと)び北宗画を貶(けな)す「尚南貶北(しょうなんへんぼく)論」を展開し、明末清(しん)初以降の南宗画に大きな影響を与えた。書は米芾(べいふつ)を宗として一家をなし、邢張米董(けいちょうべいとう)とよばれ、同時代の邢侗(けいどう)、張瑞図(ちょうずいと)、米万鍾(べいばんしょう)と併称された。書の『行草書巻』(東京国立博物館)、画の『盤谷(ばんこく)序書画合壁巻』(大阪市立美術館)などをはじめ多くの作品を残す。著書に『画禅室随筆』『容台集』などがある。
[星山晋也]
『中田勇次郎編『書道芸術8 董其昌他』(1972・中央公論社)』▽『陳舜臣他著『文人畫粹編5 董其昌他』(1978・中央公論社)』
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1555~1636
明末の文人画家。江蘇省華亭の人。官につき南京礼部尚書に至る。南宗画を完成し,北宗画を打倒する尚南貶北(しょうなんへんぼく)論を提唱した。書にも秀で,米芾(べいふつ)の書を学んで行草を得意とした。『画禅室随筆』『容台集』などの著書がある。
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…中国,明末の書画家,またその理論家,芸苑の指導者でもあった董其昌(とうきしよう)が,1603年(万暦31)に,晋の二王(王羲之,王徽之)から元の趙子昂(ちようすごう)に至る名跡を鑑定して集刻した叢帖。16巻。…
…これらの画家には,文伯仁,文彭,文嘉,陳淳,陸治,銭穀,朱朗,居節らがいる。その後,董其昌は南北宗論,文人画論を提唱し,呉派絵画の理論づけと擁護に努め,またみずから新しい絵画様式を打ち立て,後世の画壇に決定的な影響を与えた。これより呉派の主流は蘇州を離れて松江派,華亭派,雲間派,姑熟派などに分かれ,地域的にも,また画家の身分のうえでも拡散の傾向を示し,明末・清初の個性的画家たち,あるいは清初の四王呉惲(しおうごうん)へと継承発展されていった。…
…その書は李応に学び,宋・元から晋・唐にさかのぼって一家を成し,晩年には黄庭堅風の作品を書いた。明末には蘇州に近い松江(上海市)から董其昌(とうきしよう)が現れた。彼も詩書画をともによくし,ことにその著《画禅室随筆》などで卓越した書画論を展開し,後世に絶大な影響を与えた。…
…中国絵画の流派の一つ。明代呉派の一分派で董其昌の出身地にちなんでいう。松江は江蘇の府名で現在の上海市一帯をいう。…
…元代の書壇では趙孟頫(ちようもうふ)らが活躍して一般に保守的な傾向が強く,古典を学習するための参考書が多く書かれたが,宋代の清新な書論は影をひそめた。 明代になると,董其昌によって革新的な書論が唱えられた。書に現れた時代性を初めて解明し,率意の書を重んじ,技法の修練の果てに得られる精神の自由を説いて,その後の書壇に最も大きな指導力を発揮した。…
…実証を尊び,実践躬行の学問を重んじた気風と同じく,美術でも表現の論理的な明晰を第一義とし,宮廷の嗜好を反映して気品に満ちた,彩色の美しく理知的な造型感覚が要求され,一部には西洋文物の影響が顕著に認められる。
[絵画]
江蘇一帯で活躍していた明末の画家は,董其昌の提言した〈模倣を通してしか新たな創造はありえない〉とする指標とは裏腹に,董其昌画の特質を分解し発展させる一方,董其昌画に欠けていた呉派文人画特有の豊かな詩情表現に成功した。理論には忠実ではなかったが,実作では董其昌画の末梢的な要素を増殖していったといえるであろう。…
…南画ともいう。南宗画という用語は16世紀後半から17世紀初頭にかけて活躍した松江華亭(現,上海市)の画家,董其昌(とうきしよう),莫是竜(ばくしりゆう),陳継儒において見られる。彼らはみずからを文人画の本流に棹さすものと自負し,その立場から当時の万暦画壇を批判し,独自の絵画史観を展開した。…
…しかし明代の初期から中期にかけては,杭州を中心に南宋画院絵画を継承した浙派と呼ぶ職業画家たちがおり,互いに激しく対立した。両者の対立は,結局,呉派から出た明末の董其昌(とうきしよう)の南北宗論によって終止符を打たれ,呉派の圧倒的勝利に終わった。董其昌の南北宗論は実は南宗正統画論であり,中国の絵画を南宗(なんしゆう)と北宗(ほくしゆう)の2様式に分け,李思訓・南宋院体・浙派と続く系譜を北宗,王維・董源・米芾・元末四大家・呉派の系譜を南宗とし,南宗の北宗に対する正統的優位を主張した。…
…北画ともいう。南宗画と対をなす概念で,明末万暦(1573‐1619)のころ,董其昌や莫是竜ら華亭(今の上海市)の画家たちによって唱えられたいわゆる尚南貶北の論によって,宮廷画院系の職業画家たちの画が北宗画と呼ばれてけなされたのである。明においては,その前半には宮廷画院系の画が主流を占め,後半には蘇州を中心に成熟してきた市民の絵画,いわゆる呉派文人画が盛んになってきたが,16世紀前半,文徴明の活躍したころから文人画が優勢となり,16世紀の後半から17世紀初頭にかけて,董其昌が活躍したころになると,画といえばほとんどすべて文人画系のものとされるほどになり,あるいは多様化し個性派が輩出し,あるいは通俗化し文人画の職業化も普遍的となった。…
…なお,浙派,呉派の端境期に,通常,院派と称される画家達(周臣,唐寅,仇英)が蘇州で活躍していたが,彼らは文徴明らと親しく,相互の画風上の影響関係も密接である。 明末に至ると,松江に董其昌(とうきしよう)が出て,文人画の中心地は上海周辺に移った。彼は黄公望の画風をよりどころとして独自の画風を打ち立て,明末・清初の個性派山水画風への道を切り開いたほか,一方で同じ時期の典型主義の祖ともなった。…
※「董其昌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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