八川村(読み)やかわむら

日本歴史地名大系 「八川村」の解説

八川村
やかわむら

[現在地名]横田町八川

原口はらぐち村・下横田村の南に位置し、北方の三国みくに(一〇〇四・一メートル)を水源とする室原むろはら川と、ほとけ(九六二・二メートル)から流れる金川かながわ川の狭い流域に立地する。小八川こやかわ口には八川番所があり、伯耆国萩山はぎやま(現鳥取県日南町)に通じていた。また出雲・備後・伯耆の三国境に位置する当村坂根さかねにも口屋番所が設けられ、備後国油木ゆき(現広島県西城町)に通じていた(郷方古今覚書)

応永元年(一三九四)八月一日備後国じび(現広島県庄原市)地頭山内通忠は足利義満から忠節の功により出雲横田庄を宛行われているが(「足利義満袖判下文」閥閲録)尾園おぞの村を含む八川村をさすと思われる。天文一二年(一五四三)と推定される一〇月二一日備後蔀山しとみやま(現広島県高野町)城主多賀山通続(地山内氏の分流)は備後守護山名宗詮より横田代官職を宛行われている(「塩冶綱副状」山内家文書)


八川村
やがわむら

[現在地名]高梁市津川町八川つがわちようやがわ

今津いまづ村の北、有漢うかん川流域にあり、駿河するが渡瀬わたぜ中曾なかそ久原さわら和井元わいもと木野山きのやま花田はなた実相寺じつそうじ堂屋敷どうやしきなどの集落がある。落合おちあい往来が有漢川沿いに隣村柳分やなぎぶん村に延びる。寛永備中国絵図では古瀬こせ(高一千三一二石余、松山藩領)に含まれ、古瀬八川村ともいう。古瀬は古代の賀陽郡巨勢こせ(和名抄)、中世の巨勢庄(古瀬庄とも)に由縁する地名で,同絵図の古瀬村は当村のほか、のちの柳分村・片岡かたおか村・宮瀬みやぜ村を含む。正保郷帳には古瀬を冠した九村が載るが、うち古瀬八川村・古瀬両名こせりようみよう村・古瀬実相寺こせじつそうじ村がほぼのちの当村に当たるとみられる。


八川村
やかわむら

[現在地名]大豊町八川

北東に流れる吉野川の東岸で、下土居しものどい村の北東に位置する山村。「土佐州郡志」は「東西十八町南北十五町」と記す。ほぼ吉野川沿いに阿波国への往還が通る。地名は天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に「南地九名」の一としてみえる。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「八川名」とみえ、検地面積六町四六代、うち田分一町七反一六代二歩、畠分二町二反三九代一歩、堂床(地蔵堂)一を含む屋敷一六で二町四〇代三歩。堂床の「堂識」を除くすべてが公事分と名本分。四筆に「茶有」とみえ、ほかに「大道」の記載がある。「大道」は江戸時代の阿波国への往還に比定される。

延享二年(一七四五)の豊永郷差出控(大家家蔵)によれば総地高二二四石余、うち本田高六〇石余、新田高一六三石余。


八川村
やつかわむら

[現在地名]西吉野村大字八ッ川やっかわ

銀峯ぎんぶ山の東方、丹生にう川右岸に立地。御料ごりよう郷のうち。慶長郷帳では村高七七・〇八三石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により一一二・三九七石となった。鎮守社の小桜こさくら神社本殿は安政二年(一八五五)、拝殿は文久二年(一八六二)の建立。


八川村
はちかわむら

[現在地名]當麻町大字八川はちがわ

今市いまいち村東方に所在。慶長郷帳の村高四五六・六七石、幕府領(代官間宮三郎右衛門)、元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、廃藩置県に至る。その間同藩の二割半無地高増政策で村高五七〇・八四一石。享保九年(一七二四)和州御領郷鑑(柳沢文庫)によると反別三一町四反七畝二四歩、家数四一(本百姓二九、水呑一二)、人数一八九(男八八、女九九、僧一、道心一)、医師一、職人(紺屋手間取)一、酒請売一、牛一〇、除地に浄土真宗照久しようきゆう寺、弁才天があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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