日本大百科全書(ニッポニカ) 「公的金融改革」の意味・わかりやすい解説
公的金融改革
こうてききんゆうかいかく
民業を圧迫し資本市場の発達を妨げている公的金融システムを民営化、統合、廃止などしてスリム化すること。公的金融の入口である郵便貯金や簡易保険などの郵政改革、真ん中にあたる財政投融資制度の縮小、出口である政策金融改革の3面から進められている。日清戦争の賠償金を元に政府系金融機関が誕生して以来、日本の金融界では長い年月の間に過度に肥大化した公的金融のスリム化が重要な課題となってきた。とくに入口問題では、長く民間金融界が郵政事業の民営化を要望していたが、2005年(平成17)、郵政民営化を掲げた小泉純一郎政権が衆議院選挙(郵政民営化選挙)で圧勝し、同年、民営化法案が成立した。2007年に、日本郵政公社が4分割・民営化され、ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険、郵便事業、郵便局が日本郵政株式会社のもとに子会社化して置かれる体制となった。2012年には郵便事業と郵便局が統合して日本郵便が発足し、日本郵政、日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の4社体制となる。2015年に日本郵政、ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険は株式上場を果たし、2017年9月までに、政府が保有するゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の株式を売却し、完全民営化する予定であったが、その後の法改正により明確な売却期限がなくなり、2020年(令和2)時点では達成されていない。
一般会計予算と比べ、国会の監視の目が届きにくいとされてきた財政投融資については、投融資に必要な資金の調達を郵便貯金や年金積立金に頼らず、財投債と財投機関債を発行して市場から調達するなどの改革を2001年度から断行。1996年度(平成8)に40兆円を超えた投融資計画の規模は、2008年度には13兆円台まで縮小した。
政策金融改革では1990年代に、特殊法人改革の一環として日本開発銀行と北海道東北開発公庫が統合して日本政策投資銀行となった。その後、小泉政権下の2006年に行政改革推進法が成立し、2008年10月に日本政策投資銀行と商工組合中央金庫(商工中金)の民営化や、国民生活金融公庫、農林漁業金融公庫、中小企業金融公庫、国際協力銀行(国際金融業務)の統合による日本政策金融公庫(日本公庫)が実現した(国際協力銀行は2012年4月に日本公庫から分離独立)。また公営企業金融公庫は廃止され、自治体の上下水道や病院などへ貸し付ける「地方公営企業等金融機構」に受け継がれた(2009年6月に地方公共団体金融機構に改組)。すべての政策金融残高の国内総生産(GDP)に対する比率を半減するなどの目標も設定した。
ただ金融危機に備え、民営化後の日本政策投資銀行と商工中金を政策金融の窓口として活用する道も残された。両社は5~7年後の完全民営化(政府保有株式のすべてを処分)を目ざしていたが、2008年に発生したリーマン・ショックおよび2011年に発生した東日本大震災後に組織のあり方が見直され、経済危機時の安定的な資金供給に万全を期すため、当分の間、株式を政府が保有することとなった。
[編集部]