内山書店の創設者。岡山県の農村に生まれ,12歳から大阪や京都の商家で奉公した。1912年,27歳のとき牧野虎次郎牧師(のち同志社大学学長)の導きでキリスト教に入信,同師の紹介で翌年,参天堂製薬の宣伝員として中国へ渡った。17年,上海で開いた書店は完造および夫人美喜子の誠実な人柄によって発展,のち東京にも中国書専門店を開いた。上海の店は,日本の中国侵略の進行しつつあった時代にもかかわらず,日中文化人の交流の場として著名になった。27年以来,10年におよぶ魯迅との交流は名高い。29年以来,北四川路にあった内山書店は魯迅の住居に近く,魯迅は内山書店を応接室がわりに利用していたほどであった。中国へ木版画技法を伝えた内山嘉吉は完造の末弟である。完造はまた軽妙な口語文や気どらない語り口の講演を得意とし,生きた中国人の姿を日本人に伝えた。《生ける支那の姿》(1935)以来,戦後に至るまで11冊の自称〈漫語〉の著作がある。敗戦後帰国,50年日中友好協会理事長に就任。59年,病気療養のため招かれた北京で死去した。自伝《花甲録》(1960)は,歴史年表と内山個人の行動を組み合わせた独特の形式で,明治人の反骨,キリスト者の誠実,商人のしたたかさ等々,要するに内山的なものの独自性をきわめて素直に表現した作品である。
執筆者:春名 徹
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大正・昭和期の日中友好運動家 内山書店店主;日中友好協会理事長。
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上海(シャンハイ)内山書店店主、日中友好運動の功労者。岡山県に生まれる。高等小学校中退後、大阪に出て丁稚(でっち)奉公、ついで京都の呉服店で10年間番頭として生活した。27歳のときキリスト教に入信。1913年(大正2)牧師の紹介で目薬会社に入り、出張員として中国に渡った。薬の宣伝に従事するかたわら、妻の美喜子とともに上海に書店を開いた。その後書店の経営に専念し、魯迅(ろじん/ルーシュン)をはじめ多くの中国の知識人と親交を結び、日中両国知識人交流の掛け橋となった。1947年(昭和22)帰国、1950年には日中友好協会理事長となり、日中友好運動に力を注いだ。1959年中国側の招きで病気療養のため訪中したが、北京(ペキン)で死去した。
[北河賢三]
『内山完造著『花甲録』(1960・岩波書店)』
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…全称は日本中国友好協会。1950年10月に結成された(初代会長松本治一郎,同理事長内山完造)。日中国交正常化以前は中国との交流の窓口の一つとして,残留日本人の帰国問題などで大きな役割を果たしたが,66年,日中両国共産党の関係悪化にともなって分裂し,非日共系の人々は別に日中友好協会〈正統〉を結成した。…
※「内山完造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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