内山完造(読み)ウチヤマカンゾウ

デジタル大辞泉 「内山完造」の意味・読み・例文・類語

うちやま‐かんぞう〔‐クワンザウ〕【内山完造】

[1885~1959]書店経営者・日中友好運動家。岡山の生まれ。大正初期に上海で書店を開き、魯迅などの中国知識人と親交を結んだ。第二次大戦後は日中親善に尽力

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精選版 日本国語大辞典 「内山完造」の意味・読み・例文・類語

うちやま‐かんぞう【内山完造】

  1. 書店主。岡山県生まれ。終戦まで上海で書店を経営。魯迅らと親交があり、日中文化の交流につくした。明治一八~昭和三四年(一八八五‐一九五九

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改訂新版 世界大百科事典 「内山完造」の意味・わかりやすい解説

内山完造 (うちやまかんぞう)
生没年:1885-1959(明治18-昭和34)

内山書店の創設者。岡山県の農村に生まれ,12歳から大阪や京都の商家奉公した。1912年,27歳のとき牧野虎次郎牧師(のち同志社大学学長)の導きでキリスト教入信,同師の紹介で翌年,参天堂製薬の宣伝員として中国へ渡った。17年,上海で開いた書店は完造および夫人美喜子の誠実な人柄によって発展,のち東京にも中国書専門店を開いた。上海の店は,日本の中国侵略の進行しつつあった時代にもかかわらず,日中文化人の交流の場として著名になった。27年以来,10年におよぶ魯迅との交流は名高い。29年以来,北四川路にあった内山書店は魯迅の住居に近く,魯迅は内山書店を応接室がわりに利用していたほどであった。中国へ木版画技法を伝えた内山嘉吉は完造の末弟である。完造はまた軽妙な口語文や気どらない語り口の講演を得意とし,生きた中国人の姿を日本人に伝えた。《生ける支那の姿》(1935)以来,戦後に至るまで11冊の自称〈漫語〉の著作がある。敗戦後帰国,50年日中友好協会理事長就任。59年,病気療養のため招かれた北京死去した。自伝《花甲録》(1960)は,歴史年表と内山個人の行動を組み合わせた独特の形式で,明治人の反骨,キリスト者の誠実,商人のしたたかさ等々,要するに内山的なものの独自性をきわめて素直に表現した作品である。
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20世紀日本人名事典 「内山完造」の解説

内山 完造
ウチヤマ カンゾウ

大正・昭和期の日中友好運動家 内山書店店主;日中友好協会理事長。



生年
明治18(1885)年1月11日

没年
昭和34(1959)年9月20日

出身地
岡山県芳井町

学歴〔年〕
高小中退

経歴
16歳で大阪に出て洋反物店に奉公、その後、奉公先を転々。27歳でキリスト教に入信。大正2年牧野虎次牧師(のち同志社大学総長)の世話で参天堂の上海店に入り、大学目薬の行商で揚子江流域を歩き回った。31歳になった5年、キリスト者の井上みきと結婚。みきは小さな書店を上海に開き、内山も書店に専念。内地から谷崎潤一郎、佐藤春夫らが店に寄り、昭和2年ごろから魯迅が毎日のように来て親交を結んだ。10年魯迅の序文入り随筆「生ける支那の姿」を刊行、中国語に訳されて評判になった。敗戦で22年に帰国、神田に内山書店を開店。24年中国貿易促進会常任理事、日中友好協会理事長。31年魯迅死後20年記念会に招かれ、34年病気で再び中国入りしたが客死した。他に「上海漫語」「花甲録」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「内山完造」の意味・わかりやすい解説

内山完造
うちやまかんぞう
(1885―1959)

上海(シャンハイ)内山書店店主、日中友好運動の功労者。岡山県に生まれる。高等小学校中退後、大阪に出て丁稚(でっち)奉公、ついで京都の呉服店で10年間番頭として生活した。27歳のときキリスト教に入信。1913年(大正2)牧師の紹介で目薬会社に入り、出張員として中国に渡った。薬の宣伝に従事するかたわら、妻の美喜子とともに上海に書店を開いた。その後書店の経営に専念し、魯迅(ろじん/ルーシュン)をはじめ多くの中国の知識人と親交を結び、日中両国知識人交流の掛け橋となった。1947年(昭和22)帰国、1950年には日中友好協会理事長となり、日中友好運動に力を注いだ。1959年中国側の招きで病気療養のため訪中したが、北京(ペキン)で死去した。

[北河賢三]

『内山完造著『花甲録』(1960・岩波書店)』

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百科事典マイペディア 「内山完造」の意味・わかりやすい解説

内山完造【うちやまかんぞう】

日中友好推進者。内山書店創設者。岡山県出身。高等小学校卒業後,各地の商家で奉公。牧野虎次郎牧師(のち同志社大学学長)の導きでキリスト教に入信,同師の紹介で1913年製薬会社販売員として中国へ渡る。1914年上海で開業した内山書店は日中文化人の交流の場として著名となり,1927年初めて同書店を訪れた魯迅とは,日中間の暗い時代のなか,深い信頼関係で結ばれていた。1947年帰国,1950年日本中国友好協会を設立し理事長に就任,日中友好運動に生涯を捧げた。病気療養のため招かれた北京で死去。自伝に《花甲録》がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「内山完造」の解説

内山完造 うちやま-かんぞう

1885-1959 大正-昭和時代の書店主,日中友好運動家。
明治18年1月11日生まれ。大正2年参天堂の大学目薬販売員として中国にわたる。6年上海で内山書店を開業。魯迅(ろじん),郭沫若(かく-まつじゃく)らとまじわり,革命運動を援助。昭和22年帰国。東京神田に内山書店を開業。25年日中友好協会理事長となり,日中関係の打開につくす。病気療養のためまねかれた北京で昭和34年9月20日死去。74歳。岡山県出身。自伝に「花甲録」。

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367日誕生日大事典 「内山完造」の解説

内山 完造 (うちやま かんぞう)

生年月日:1885年1月11日
大正時代;昭和時代の日中友好運動家
1959年没

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世界大百科事典(旧版)内の内山完造の言及

【日中友好協会】より

…全称は日本中国友好協会。1950年10月に結成された(初代会長松本治一郎,同理事長内山完造)。日中国交正常化以前は中国との交流の窓口の一つとして,残留日本人の帰国問題などで大きな役割を果たしたが,66年,日中両国共産党の関係悪化にともなって分裂し,非日共系の人々は別に日中友好協会〈正統〉を結成した。…

※「内山完造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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