江戸後期の儒者。名は虎。通称多門、字(あざな)は叔貔(しゅくひ)。信濃(しなの)の人。室鳩巣(むろきゅうそう)、新井白石(あらいはくせき)に学んだ父旭嶺(きょくれい)(1698―1768)の六男。初め父より程朱学を学んだが、16歳で江戸に出て、定師につかず貧窮のうちに古今の書を参究した。流派をたてずに注釈(ちゅうしゃく)を中心とする客観的な諸経研究に励み、いわゆる「冢田学」と称される業績を残した。儒学史ではしばしば折衷学派の一人に分類される。紀伊藩、尾張(おわり)侯をはじめ多くの武門の子弟を教え、1811年(文化8)尾張藩明倫(めいりん)堂の督学となり、その学政をつかさどった。1790年(寛政2)の寛政(かんせい)異学の禁に対して、上書して激しくその不可を論難したことでも有名である。『大峯文集』6巻、『大峯詩集』4巻ほか多くの注釈書がある。
[黒住 真 2016年6月20日]
『高瀬代次郎著『冢田大峯』(1919・光風館書店)』
(梅澤秀夫)
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