日本大百科全書(ニッポニカ) 「紀伊藩」の意味・わかりやすい解説
紀伊藩
きいはん
紀州藩、和歌山藩ともいう。紀伊国(和歌山県)一国と伊勢(いせ)国(三重県)の一部を領有した藩。初め外様(とざま)、のち親藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの結果、浅野幸長(よしなが)が甲斐(かい)国(山梨県)から入国し、翌年検地を実施し、高野山(こうやさん)領を除いて37万6562石余を打ち出した。以後、1697年(元禄10)、98年に地詰(じづめ)が行われたが、全藩的な検地は実施されなかった。この慶長(けいちょう)検地によって紀伊藩が確立したが、大坂冬の陣、夏の陣で軍事力が手薄になると北山一揆(いっき)などが起きて支配は動揺した。1619年(元和5)に浅野氏が安芸(あき)国(広島県)に転封となると、徳川家康の第10子頼宣(よりのぶ)が駿河(するが)(静岡県)から入り、伊勢・大和(やまと)(奈良県)の各一部をあわせて55万5000石を領有し、御三家の一つとなった。頼宣以後、藩主は、光貞(みつさだ)、綱教(つなのり)、頼職(よりもと)、頼方(よりかた)(吉宗(よしむね))、宗直(むねなお)、宗将(むねのぶ)、重倫(しげみち)、治貞(はるさだ)、治宝(はるとみ)、斉順(なりゆき)、斉彊(なりかつ)、慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))、茂承(もちつぐ)と14代続いた。頼宣は入国後、城の普請(ふしん)や城下町の整備拡張をし、牢屋(ろうや)の普請を行ったり、諸国の牢人を多数召し抱え、国中に威圧を加えた。また農村の有力農民を地士(じし)に取り立て、藩側に取り入れたり、今高(いまだか)制を導入するなど、藩政基盤の充実に努めた。紀州藩が広大で、城下町が紀北にあるために、付家老(つけがろう)の安藤直次(なおつぐ)を3万8000石で田辺(たなべ)に、同水野重仲(しげなか)(重央)を3万5000石で新宮(しんぐう)に置いた。これらは支藩的存在であったが、正式にそれぞれが藩となったのは1868年(慶応4)であった。
5代頼方は2代光貞の四男であったが、長男は夭折(ようせつ)、藩主となった二男・三男も相次いで死んだため、1705年(宝永2)藩主となり、藩財政の立て直しに成功し、16年(享保1)に徳川8代将軍吉宗となり享保(きょうほう)の改革を実施した。13代慶福も、徳川宗家を継いで14代将軍家茂となる。特産物は紀州ミカン、湯浅醤油(しょうゆ)、黒江漆器、備長炭(びんちょうたん)などである。1869年(明治2)津田出(いずる)による藩政改革では、明治政府に先駆けて徴兵制を敷き、ヨーロッパ式の兵制改革とそれに伴う皮革産業、綿ネルなどの産業が発達するようになった。1871年7月、紀伊・田辺・新宮各藩はそれぞれ県となり、11月、田辺・新宮両県が和歌山県に統合された。
[安藤精一]
『安藤精一著『和歌山県の歴史』(1970・山川出版社)』