几董(読み)キトウ

デジタル大辞泉 「几董」の意味・読み・例文・類語

きとう【几董】

高井几董たかいきとう

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精選版 日本国語大辞典 「几董」の意味・読み・例文・類語

きとう【几董】

  1. 江戸中期の俳人京都の人。本姓高井。几圭の子。三〇歳の時、蕪村師事。のち、夜半亭三世を継いだ。「其雪影」「明がらす」「蕪村句集」などを編み、蕪村門下の中心となって、中興俳壇に活躍。著「井華集」「新雑談集」など。寛保元~寛政元年(一七四一‐八九

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改訂新版 世界大百科事典 「几董」の意味・わかりやすい解説

几董 (きとう)
生没年:1741-89(寛保1-寛政1)

江戸中期の俳人。姓は高井,幼名は小八郎,別号は晋明,高子舎,春夜楼,3世夜半亭など。京都の人。俳諧ははじめ父几圭に学んだが,その時期の作品は少ない。几圭没後の1770年(明和7),蕪村の夜半亭2世継承(1世夜半亭は巴人(はじん))とともに蕪村の門に入り,頭角をあらわした。72年(安永1),父几圭の十三回忌追善の意味をもつ処女撰集《其雪影》を刊行して世に認められ,翌年はじめて歳旦帳《初懐紙(はつかいし)》を刊行し,自分の結社である春夜楼の存在を世に示した。またこの年には蕪村,樗良(ちよら),嵐山とともに《此ほとり》の四歌仙を巻き,さらにその翌年には,上京してきた暁台(きようたい)と交わるなどして他門にも知られるようになった。《あけ烏》(1773),《続明烏》(1776)など,蕪村一派の力を世に問う撰集を編纂し,その中心人物として内外から認められた。蕪村没後の85年(天明5),《続一夜松集》編纂のため江戸に下り,蓼太のすすめによって夜半亭3世を継承した。88年正月,京都の大火に類焼してからは,門弟のもとを転々とし,伊丹の士川宅で急逝した。几董の死によって夜半亭は絶え,門弟紫暁は春夜楼2世を継いだ。作風は繊細な感覚を生かして,巧緻である。編著はほかに《から檜葉》《桃の雫》《蕪村句集》《新雑談集》《点印論》などがあり,発句は《井華集》にまとめられている。〈絵草子に鎮(しず)おく店や春の風〉(《井華集》)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「几董」の意味・わかりやすい解説

几董
きとう
(1741―1789)

江戸中期の俳人。姓は高井。幼名小八郎。前号雷夫(らいふ)。別号晋明(しんめい)、春夜楼(しゅんやろう)、高子舎(こうししゃ)、3世夜半亭(やはんてい)等。京都の人。初め父几圭(きけい)に俳諧(はいかい)を学んだが、父の没後、29歳のとき蕪村(ぶそん)に入門、『其(その)雪影』『あけ烏(がらす)』『続明(あけ)がらす』などを編纂(へんさん)、刊行して名をあげた。蕪村門下の筆頭格で、蕪村とともに中興期俳諧において指導的役割を果たした。

 蕪村没後、一時俳壇から退いたが、1785年(天明5)江戸の蓼太(りょうた)の勧めによって蕪村の跡を継ぎ、夜半亭3世を名のった。1788年いわゆる天明(てんめい)の大火に類焼してからは京坂地方の門弟の間を転々とし、翌寛政(かんせい)元年の10月23日、伊丹(いたみ)の士川(しせん)宅で、酒杯を重ねるうちに没したという。作風は繊細優婉(ゆうえん)で、独特の魅力がある。

 絵草紙(ゑざうし)に鎮(しづ)おく店や春の風
[山下一海]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「几董」の解説

几董 きとう

高井几董(たかい-きとう)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「几董」の意味・わかりやすい解説

几董
きとう

高井几董」のページをご覧ください。

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