初期経験(読み)しょきけいけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「初期経験」の意味・わかりやすい解説

初期経験
しょきけいけん

発達初期の経験はそれ以後の経験と比べて、発達の過程や到達水準に対してきわめて特異なまたはより大きな影響を残すことを強調することば。このような考え方はさまざまの異なる分野から現れてきたが、総称して初期経験説とよばれることもある。

 その一つは、フロイトの精神分析学である。フロイトは、5歳までの幼児性欲期を口唇期、肛門(こうもん)期、エディプスオイディプス)期(男根期)に分けた。それぞれの段階でリビドーlibido充足の欲求不満フラストレーション)があると、リビドーはその段階に固着して人格は成長せず、後の欲求不満状況に際して簡単にこれらの段階に退行する口唇性格、肛門性格、エディプス複合などの好ましくない特性ができあがるとした。このような特性は、幼児性欲期以降のリビドーの充足では解消することができず、精神分析という専門的療法をまたねばならない。この説は、初期経験の人格発達に与える効果の独自性、非可逆性、永続性を仮定している。

 精神分析学の後継者は、精神分析学的自我心理学と対象関係論であるが、前者は心理学者エリクソンのいう危機(発達課題)として、第一に、「信頼対不信」をあげている。後者では、最初期からの養育者―子ども関係を重視する。この流れは、ホスピタリズム(施設病)や後述の刷り込みなどの実証的研究の支えを得て、人間発達における愛着の確立の重要性を強調するイギリスの児童精神分析学者ボウルビーJohn Mostyn Bowlby(1907―1990)の理論を生みだした。これらは、フロイトの初期経験説の継承といえる。

 比較行動学者のローレンツは、大型離巣性鳥類の卵を人工孵化(ふか)し、最初に適切な動きや音声をもつ仮親につけると、たとえそれが単なる物体であっても、雛(ひな)はこれを親として追尾し、仲間の鳥には愛着をもたなくなる現象――刷り込み(刻印づけ)をみいだした。刷り込みは、孵化後の早い一定時間内の臨界期にだけ可能である。また、カナダの心理学者ヘッブは、ネズミに刺激に富むか、または乏しい初期環境を与えると、これに応じてネズミの知的能力は高くまたは低くなるが、後期の環境は無関係であることをみいだしている。アメリカの心理学者ローゼンツバイクMark Rosenzweig(1922―2009)らによると、刺激の豊富な環境に育てられたネズミに脳重量が増加し、アメリカの心理学者のヘインAlan HeinとヘルドRichard Held(1922―2016)は、自発的に運動するネコは受動的に同じ運動を行うネコより視覚能力に勝ることを示した。神経生理学者のヒューベルウィーゼルによる多くの動物実験は、生後早い時期に適切な刺激を受けない神経細胞は機能を失い、またほかに転用されることを示した。そうであるなら、刺激の乏しい環境下で育つネズミの脳の発達が抑えられることが理解される。

 初期経験のもつ臨界期的性質が、人間発達の場合にも動物実験の結果と同様に適用されるとすれば、それはただちに早期英才教育の是非論と結び付くことは明らかである(たとえば、井深大(いぶかまさる)はその著書『幼稚園では遅すぎる』(1971)のなかで、学問的にはきわめて疑わしいオオカミ少女の例を引きながら、早期教育の効用を力説している)。しかし、人間の発達過程は動物と異なり、社会・文化・時代環境などの複雑な多くの要因が関与するので、発達初期という生物学的要因のみによって決定される比重は相対的に小さい。また、実験的操作によって発達過程を左右することも許されない。したがって、多面的資料に頼って結論を求めるほかはないが、現在までの知見を総合すると、発達初期(生後2~5年間)の劣悪な環境条件、とくに温かい養育関係の欠除(マターナル・プリベーション)またはその喪失マターナル・デプリベーション)は、発達遅滞その他の永続的悪影響を及ぼす可能性が高い。

 一方、初期経験の豊富化効果はどうか。ダウン症の早期療育は、遅滞の防止にかなりの効果をもつことが、1970年代以来確かめられてきた。また、大統領ジョンソンの時代のアメリカで、就学前の教育的環境条件の欠如が貧困階層児の学業遅滞の主因であるとして、平等条件での出発を促そうとする貧困階層児の就学前補償教育(ヘッド・スタート計画)が試みられ、長期的には学校からの脱落防止などの効果がみられたという。絶対音感は訓練により誰でも獲得可能であるが、臨界期を超えると効果がないといった研究はあるけれども、初期経験の豊富化が遅滞の防止といった特定の場合を除き、発達促進や才能開発にとくに有効とする根拠はかならずしもみいだされていない。

[藤永 保]

『小此木啓吾著『人類の知的遺産56 フロイト』(1978・講談社)』『津本忠治著『脳と発達』(1986・朝倉書店)』『関口茂久・岡市広成編著『行動科学としての心理学』(1987・ブレーン出版)』『古川真人・藤田宗和著『新・教育心理学』(1994・尚学社)』『青柳肇・杉山憲司編著『パーソナリティ形成の心理学』(1996・福村出版)』『藤永保・斎賀久敬・春日喬・内田伸子著『人間発達と初期環境――初期環境の貧困に基づく発達遅滞児の長期追跡研究』改訂版(1997・有斐閣)』『井深大著『幼稚園では遅すぎる――人生は三歳までにつくられる!』新装版(2003・サンマーク出版)』『ジョゼフ・ルドゥー著、森憲作監修、谷垣暁美訳『シナプスが人格をつくる』(2004・みすず書房)』『藤永保著『幼児教育を考える』(岩波新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「初期経験」の意味・わかりやすい解説

初期経験
しょきけいけん

初期学習,初期刺激づけともいう。発達する有機体にとって,発達のごく初期に与えられる刺激 (経験) をいう。この初期の刺激づけが,のちになって現れる発達に重大な影響をもつことが,最近明らかになった。新生児期の大脳はまだかなり未熟であるが,初期の刺激づけを通して大脳が成熟を進め,精神機能の発達がもたらされる。ある適当な時期までに適切な刺激が与えられないと,その後になって発現すべき発達が現れなかったり,不十分であったり,ゆがんだ形になるおそれがある。刺激づけには最適期があり,その時期を過ぎると効果は生じにくくなる。この時期を臨界期という。

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