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母子関係 ぼしかんけい

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

母子関係
ぼしかんけい

スイスの生物学的人間学者A・ポルトマンによると、人間は最高次に進化した哺乳(ほにゅう)類として本来は完備した自活・移動能力を備えて生まれてくるはずのところを、逆に無防備・無能力の状態で出産する。これは、胎児の発育が母体の負担を超えるほど過大になったための常態化された早産のせいだという。したがって、人間の乳児は他の動物種に比しはるかに長期の、また母親による緊密な養育を必要とすることになり、ひいては母子関係が発達のための必須(ひっす)な条件となっていく。[藤永 保]

ホスピタリズムと母親不在症状

1950年代以降、母子関係についての実証的研究が進展し、その重要さを裏づける数々の知見が得られた。もっとも顕著な例として、乳児院などの施設に収容され養育者との親密な関係をもたない子供は、きわめて高い死亡率と重度の発達遅滞を示すことがあげられる。さいわい遅滞を免れて成人しても、他者に対して真の愛情をもつことがなく、その生命や財産を尊重する気持ちがないので、非行そのものを自己目的として非行を犯すという反社会的性格をもつようになる。このような症状は、総称してホスピタリズムhospitalism(施設病)とよばれてきた。しかし、イギリスの児童精神分析学者ボウルビーJohn Bowlby(1907―1990)によるWHO(世界保健機関)の調査報告『乳幼児の精神衛生』は世界各国の研究結果を集約し、以上の障害は施設自体が原因になるのではなく、真因は母子関係の阻害やゆがみにあることが確かめられた。精神分析学者スピッツRen Spitz(1887―1974)による追跡研究は、強固な裏付けを与えた。そのため、施設病は、その後、母親剥奪(はくだつ)(マターナル・デプリベーションmaternal deprivation)などとよばれるに至った。普通の家庭でも、単なる衣食住の世話だけが行われ母子間の温かい心の交流がないままに養育された子供には、類似の症状がおこりうる。これは隠れたデプリベーションとよばれている。さらにその後、イギリスの児童精神科医ラターMichael Rutter(1933― )は、非行は離婚家庭などの場合に多いことから、これは単にマターナル・デプリベーションによるとはいえず、家庭内の不和などの要因との複合によることを主張した。このような事実は、初めから母親をもたず家庭内の不和や葛藤(かっとう)を経験しない場合、その後の養育条件がよければ非行はおこりにくいことを示唆する。ラターは、したがって、母性的養育をもたないという意味でのマターナル・プリベーション(欠落)と中途でそれを失うことを意味するマターナル・デプリベーション(喪失)とを分けるべきだという。さらに後述するような理由により、ここでいう「母親の」(マターナル)は文字どおりの生みの母をさすというよりも親身な養育者の象徴と解すべきであろう。このようにみてくると、マターナル・デプリベーションは「養育者喪失(症状)」、マターナル・プリベーションを「養育者不在(症状)」というように使い分けるのが適切であろう。これら二つの状態は、重なりあう側面も多いため、実際の徴候や症状はかならずしも明確に分かれるわけではないが、原理的には、養育者喪失症状は急性的で、また発達遅滞のみならず人格障害をも招きやすい。一方、養育者不在症状は慢性的で、高い死亡率とより重度の発達遅滞をおこすと考えられている。
 母子関係は、以上のように、心身両面の成長にとって不可欠な役割を果たすが、さらにさまざまな具体的役割をもつ。乳児は5~7か月に至ると、離れた所から母親の姿や音声を見分け接近や歓迎行動を示す反面、見知らぬ人は拒否するという、いわゆる「人見知り」を表すようになる。この現象は、乳児が母親をかけがえのない養育者として認知したことの象徴であり、母子間に強い愛着の形成されたしるしである。この後、乳児は母親といっしょであれば、未知の場所をも探索するという旺盛(おうせい)な好奇心を発揮するようになる。母親は安定感の源泉であり、このもとに探索欲求のような知的な欲求も初めて育っていく。さらに重要なのは、愛着の形成によって乳児には強い信頼の感覚が獲得され、この感覚はやがて他の人々に移調され、ひいては自らの育つ世界の秩序への信頼感にまで拡大されていく点である。E・H・エリクソンは、乳児期の発達課題を、母親を対人関係の中軸に置いて、信頼対不信という葛藤を信頼の方向に解決していくことに求めているが、このような信頼感は生命力の一つの源泉をつくるといえよう。[藤永 保]

性格や知的能力形成の源泉

母子関係はまた、性格や知的能力を形成するうえでの一つの源泉である。イギリスの社会学者バーンスタインBernard Basil Bernstein(1924―2000)は、母親のことば遣(づか)いが子供の言語性知能の発達とかかわりの深いことを説き、これが端緒となって、母子間の相互交渉において母親がどのような仕方で子供に知識を伝達し、その認識を拡大していくかの研究が注目を集めた。S・フロイトは、その精神分析学において、子供はエディプス的葛藤を避けるために同性の親と同一化し、その特性を取り入れていくと論じた。このような意味では、母子関係は女児の性役割の獲得に直接大きなかかわりをもつばかりでなく、男児の父親との同一化にあたっても、エディプス的葛藤を賢明に解決しうるか否かという点で、間接に影響を与えているといえよう。さらに、子供は身近の親しい成人のふるまいを観察して、さまざまな行動様式を取り入れる(モデリングmodeling)。この点では、母親は男女児を問わず大きなモデリングの対象であり、さまざまな規範を提供している。また、母親のしつけや環境設定のあり方が子供の性格特性をつくりあげるうえで影響が大きいことは、精神分析学における人格発達説などでも強調されている。精神分析学の後継理論である対象関係論においても最初期からの養育者―子供関係が発達のもっとも重要な要因と考えられている。[藤永 保]

母子関係と家族関係

しかし、母子関係は家族関係の一環であり、それだけで独立したものではない。母子関係と並ぶ父子関係の意義も、多くの説話や文学作品、さらにはフロイトの精神分析学においても早くから強調されてきている。1970年代以降、改めて父子関係の研究に関心が注がれるようになり、また、兄弟・姉妹関係にも目が向けられている。他方また、とくに先進諸国では、家族の変調や不安定も著しい。これに伴い、乳幼児虐待や育児放棄もいっそう増大し、日本では、1990年代前半から約20年間に20倍以上という急増がみられ、この勢いが続けば遠からず年間何十万という件数に達するものと予想される。子育て状況も、これに対応して変化していると考えられる。現代の核家族社会では、なお育児の主役は母親にあり、母子関係の重要さは意義を失っていないが、かつての血縁・地縁による子育て支援を失った現在の日本社会では父親の育児参加の拡大と地域行政による子育て支援方策の充実が求められている。母子関係の過大な強調は、母親だけを育児の担い手とする保守的伝統の表れとして、フェミニズムの側からの批判も厳しい。一方また、育児に献身する母というイメージも根強いため、母親は子供の業績を自分自身のそれのように感じ、幼少期から受験教育に熱中する「教育ママ」の風潮も失われたわけではない。今後、男女共同参画社会にふさわしい子育て方式の確立が求められ、そのなかでの母子関係の新しい位置づけが要望される。[藤永 保]

授乳期の母性愛

母の愛は、古今東西、子供にとってきわめて崇高なものとして詩や物語のなかでたたえられ、絵画にも表現されてきた。それは、子供を胎内で育てるばかりでなく、その後の子供の養育に対して献身的であったからであり、日本では慈母ということばが捧(ささ)げられた。母の慈愛によって、子供の人格形成が保障されてきた。
 ところが、20世紀の中ごろから、「母性剥奪(はくだつ)」とか「母性愛の喪失」ということばが使われるようになり、子供にとって心の基地である母の愛が与えられず、人格形成に著しいゆがみをもつ子供たちが増加し、非行に走ったり、精神病になることも指摘されるようになった。それは、母親になった女性の過去の生育史に問題があって、母性愛の発達が不全であること、つまり人格が未成熟であることが注目されるようになった。不幸な結婚であったり、夫との愛情関係にも問題があることが多く、情緒的に不安なまま子供に対応していることが多い。
 子供の年齢が低ければ低いほど、母性愛が具体的な養育に反映されることが必要であり、それは授乳のときの扱いや睡眠の際の子守歌に現れるが、抱くなどのスキンシップ(皮膚接触)の重要性が強調されている。それは、子供の情緒の安定にとって重要な役割を果たしているからである。
 将来においても、母性愛に基づく母子関係が、子供の人格形成にとってきわめて重要のものと考えられる。[平井信義]
『マイケル・ラター著、北見芳雄訳『母親剥奪理論の功罪――マターナル・デプリベーションの再検討』『母親剥奪理論の功罪』続(1979、1984・誠信書房) ▽ボウルビイ著、作田勉監訳『母子関係入門』(1981・星和書店) ▽小嶋謙四郎著『乳児期の母子関係』第2版(1981・医学書院) ▽東洋、柏木恵子、R・D・ヘス著『母親の態度・行動と子どもの知的発達』(1981・東京大学出版会) ▽田中喜美子著『働く女性の子育て論』(1988・新潮社) ▽ルイ・ジュヌヴィ他著、浅井美智子他訳『母親!』(1989・朝日新聞社) ▽鯨岡峻編訳、著、鯨岡和子訳『母と子のあいだ――初期コミュニケーションの発達』(1989・ミネルヴァ書房) ▽J・ボウルビィ著、黒田実郎他訳『母子関係の理論1~3』新版(1991・岩崎学術出版) ▽三宅和夫編著『乳幼児の人格形成と母子関係』(1991・東京大学出版会) ▽有地亨著『家族は変わったか』(1993・有斐閣) ▽小比木啓吾著『シゾイド人間――内なる母子関係をさぐる』(1993・筑摩書房) ▽武藤安子編著『発達臨床――人間関係の領野から』(1993・建帛社) ▽伊藤隆二著『子どもにとって家庭とは』(1995・福村出版) ▽柏木恵子著『親の発達心理学――今、よい親とはなにか』(1995・岩波書店) ▽青柳肇・杉山憲司編著『パーソナリティ形成の心理学』(1996・福村出版) ▽松尾恒子著『母子関係の臨床心理――甘えの中の子育て考』(1996・日本評論社) ▽小比木啓吾著『父と母と子、その愛憎の精神分析』(1997・講談社) ▽岸田秀著『母親幻想』(1998・新書館) ▽小林修典編著『人間発達と教育――民族誌学的視点』(1999・大学教育出版) ▽滝沢武久著『話しあい、伝えあう――子供のコミュニケーション活動』(1999・金子書房) ▽鈴木佐喜子著『現代の子育て・母子関係と保育』(1999・ひとなる書房) ▽田畑洋子著『母子関係修復過程に関する実践的研究――祖母元型マトリックス・モデル』(2002・風間書房) ▽駒米勝利著『子どもの心を育てる――児童の問題行動の理解』(2003・ナカニシヤ出版) ▽柏木恵子・高橋恵子編『心理学とジェンダー――学習と研究のために』(2003・有斐閣) ▽斎藤茂太著『母子(ははこ)関係――マザーコンプレックスからの解放』(光文社文庫) ▽河合雅雄著『子どもと自然』(岩波新書)』

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世界大百科事典内の母子関係の言及

【育児】より

…物理的な育児環境がいかに完全であっても,愛情を欠く環境では小児は健全に育たない。このことは,20世紀初めのホスピタリズムの研究,J.フロイトの研究,1950年代のボウルビーJ.Bowlbyの母子関係理論,70年代以降のクラウスM.H.Klaus,ケネルJ.H.Kennelらの母子相互作用に関する研究が明らかにしている。ボウルビーは,母と子が愛情のきずなで結ばれていることが,その子どもの自己への信頼,ひいては他者への信頼を育てることになり,円満な社会生活を営むことのできる人格形成につながる,という。…

【親子】より

… 今日の社会では,受胎から出生に至る自然のしくみを前提とするかぎり,自然的な親子関係と社会的な親子関係とは通常は一致する。また,今日の血縁に関する遺伝学上の観点からは,父子関係も母子関係と同一に考えられている。しかし,近時,少なくとも自然的な父子関係も,それぞれの社会における親子関係決定に関する規範によって社会的に決定されると主張し,父子間の血のつながりを当然視することに疑義をもつ説(フォックスR.Foxなど)も現れている。…

※「母子関係」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

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