最新 心理学事典 「自我心理学」の解説
じがしんりがく
自我心理学
ego psychology(英),psychologie du moi(仏),Ich Psychologie(独)
【精神分析的自我心理学の流れ】 フロイトの定義した自我egoの概念に基礎をおくのが精神分析的自我心理学であるが,これはフロイトの娘アンナ・フロイトFreud,A.やハルトマンHartmann,H.がフロイトの後期思想を整理・発展させることによって確立されたものとみられる。フロイトの精神分析では,1920年以前と以後で大きな違いがあるとされる。1920年以前には,エス=無意識を明らかにすることが精神分析の課題であったが,1920年以後になると,自我の構造を明らかにすることが課題となった。つまり,もともと精神分析は深層心理学と同義にとらえ,無意識,前意識,意識といった概念を用いて,抑圧された衝動や感情,空想など無意識を研究する心理学であった。ところが,『快感原則の彼岸』(1920),『集団心理学と自我の分析』(1921)においてフロイトは,新たな精神分析の方向性を示した。すなわち,自我を中心に据え,それがエスや超自我,さらには外界とどのような関係にあるかを明らかにすることが精神分析の課題とされ,自我の精神分析的研究の端緒が開かれた(Freud,A.,1936)。さらに晩年のフロイトは,『終わりある分析と終わりなき分析』(1937),『精神分析学概説』(1940)において,精神療法における治療者と治療契約を結ぶ正常な自我,エスや超自我あるいは現実の要求に受動的に対応するだけでなく自律的に機能する自我について言及している。この後期フロイトの自律的な自我のとらえ方が自我心理学の流れを導いた。精神分析的自我心理学を確立したとされるハルトマンは,知覚や思考などエスや超自我あるいは外界との葛藤に巻き込まれない自我の働きに着目し,それを葛藤外の自我領域conflict-free ego sphereの自我機能とし,エスや超自我,外界に対して主体性をもつという意味で自我自律性ego autonomyというとらえ方をした。これは,晩年のフロイトの自我のとらえ方を引き継いだものといえる。
【エリクソンのアイデンティティの心理学】 フロイトを継承したハルトマンによって確立された精神分析的自我心理学は,あくまでも本能など生物学的な要因を重視するものであった。エリクソンは,そこに社会・文化的な要因を加えて,人間の歴史的存在としての側面を強調し,社会との相互作用において自我あるいは自己の発達をとらえようという心理社会的発達理論を提唱した。ラパポートRapaport,D.(1959)は,各発達段階における心理社会的危機に対して効果的に作用し,生涯を通じてのアイデンティティ形成を支える自我の統合力を重視するエリクソンを精神分析的自我心理学の継承者と位置づけている。エリクソンは,生涯にわたる心理社会的発達を8段階でとらえようという漸成図式を提唱している。そこでは,乳児期から老年期に至る個人の生涯を八つの発達段階に分けているが,個人はそれぞれの発達段階において新たな心理社会的危機psychosocial crisisに直面する。それは,基本的信頼対不信,自律対恥・疑惑,自主性対罪悪感,勤勉性対劣等感,アイデンティティ(同一性)対アイデンティティ混乱,親密性対孤立・孤独,世代継承性(生殖性)対停滞,統合対絶望の獲得もしくは確立を挙げている。
アイデンティティidentityは,精神分析用語としてエリクソンにより初めて導入され,当初は青年期の心理社会的課題を意味するものとして用いられた。だが,その後,生涯にわたる自己形成の核となるものとみなされるようになった。エリクソン(1959)によれば,アイデンティティとは,「自我が特定の社会的現実の枠組みの中で定義されている自我へと発達しつつある確信」であり,「自我のさまざまな総合方法に与えられた自己の同一と連続が存在するという事実と,これらの総合方法が同時に他者に対して自己がもつ意味の同一と連続性を保証する働きをしているという事実の自覚」である。すなわち,アイデンティティには,自分自身の一貫性・連続性の感覚といった側面と,属する社会の成員としての役割獲得・連帯感といった側面がある。個人の発達上の問題として重要なのが,属する社会にふさわしいアイデンティティの確立である。変動の激しい社会になって,社会が不安定さを増すにつれて,アイデンティティの安定を失うアイデンティティ拡散identity diffusionが蔓延するようになった。日本における1990年あたりからのフリーターの急増,その後の引きこもりの深刻化,早期離職の問題なども,アイデンティティ拡散の問題としてとらえることができる。青年期は,アイデンティティ形成のための試行錯誤の時期であり,そのために社会的義務が緩められ自由に漂うことが許される期間であるという意味で,モラトリアム期間(猶予期間)とされる。モラトリアムmoratoriumというのは,もともと支払猶予を意味する法律用語であったが,エリクソン(1950)が青年期の心理を特徴づける精神分析用語として転用したものである。
エリクソンによるアイデンティティおよびモラトリアムの概念は,精神分析学の枠を超えて,現代人の心理的発達を検討する上で不可欠の心理学用語となっている。ただし,情報化を代表とする技術革新により社会の流動性が非常に高まっている現代において,アイデンティティ形成の過程にも従来想定されたものとは異なる様式があり得るのであり,アイデンティティのとらえ方の再検討も必要であろう。アイデンティティ形成を核として人間の発達を探究するエリクソンの自我心理学は,発達心理学,性格心理学,臨床心理学,社会心理学など心理学諸領域において消化・吸収され,活かされている。さらには,あらゆる心理現象を自己に関連づけることで心理学諸領域の知見を有機的に結びつけ,自己の構造や機能を総合的に解明していこうという自己心理学の構想の中にも息づいている。自己に関する従来の心理学的研究は,自己を静止的に対象化することで推進されてきた。だが,藤永保(2008)が指摘するように,自己という存在を支える暗黙の背景であった意識という概念については,新たな科学的知見により重大な変化が生じつつあり,客体としての自己と主体としての研究者といった対峙を捨てた新たな研究方法を模索すべき時がきているとみなすべきであろう。 →精神分析 →文化的アイデンティティ
〔榎本 博明〕
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