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加藤寛治 (かとうひろはる)
生没年:1870-1939(明治3-昭和14)
海軍軍人。福井の生れ。海軍兵学校(18期)卒業。日清戦争に従軍,日露戦争では軍艦三笠の砲術長。1921-22年にはワシントン会議随員となり,主力艦対米比率7割を主張して加藤友三郎全権と対立した。軍令部次長,連合艦隊司令長官をへて,27年大将,29年軍令部長に就任し,30年ロンドン海軍軍縮条約調印に際して,補助艦対米比率7割を強硬に要求して浜口雄幸内閣と対立,いったん黙認の態度をとったが,帷幄上奏(いあくじようそう)により不同意を表明,軍令部長を辞任した(統帥権干犯問題)。以後も艦隊派の統帥として条約派と対立しつつ,統帥権干犯,軍備拡充を唱え,ワシントン,ロンドン両条約廃棄の方向へ海軍を導いた。35年予備役。
執筆者:江口 圭一
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加藤 寛治
カトウ ヒロハル
明治〜昭和期の海軍大将
- 生年
- 明治3年10月2日(1870年)
- 没年
- 昭和14(1939)年2月9日
- 出生地
- 福井県
- 学歴〔年〕
- 海兵18期〔明治24年〕卒,海大卒
- 経歴
- イギリス大使館付武官、海大校長、軍事参議官、軍令部次長などを歴任。その間2度の軍縮会議に随員して、対米7割を主張し条約の妥結、調印に反対する。昭和5年軍事参議官となり、軍備の増強、日本の軍縮条約離脱のため画策した。
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加藤寛治【かとうひろはる】
海軍軍人。福井県出身。1891年海軍兵学校卒。日清,日露戦争に従軍。山本権兵衛に見出だされ,軍令部系の要職を歴任。海軍首席随員として参加した1921年からのワシントン会議では主力艦対米比率7割,軍令部長として臨んだ1930年のロンドン会議では補助艦対米比率7割を主張,統帥権干犯問題を起こし,艦隊派の総帥として条約派と対立した。
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加藤寛治 かとう-ひろはる
1870-1939 明治-昭和時代前期の軍人。
明治3年10月2日生まれ。戦艦三笠の砲術長として日露戦争に出征。大正10年ワシントン軍縮会議の随員となり,対米7割の強硬論を主張。15年連合艦隊司令長官。昭和4年軍令部長となり,翌年ロンドン海軍軍縮会議でも強硬論を主張して政府と対立,統帥権干犯問題をひきおこし辞職。海軍大将。昭和14年2月9日死去。70歳。越前(福井県)出身。海軍兵学校卒。
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加藤寛治
かとうひろはる
[生]明治3(1870).10.2. 福井
[没]1939.2.9.
海軍軍人。 1891年海軍兵学校卒業。第5戦隊司令官,海軍大学校校長などを歴任後,1926~28年連合艦隊司令長官。 27年大将。 29~30年帷幄 (いあく) 上奏を行なって,ロンドン海軍軍備制限条約に強く反対した。
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加藤 寛治 (かとう ひろはる)
生年月日:1870年10月2日
明治時代-昭和時代の海軍軍人。大将
1939年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の加藤寛治の言及
【統帥権干犯問題】より
…1930年1月に開かれた[ロンドン軍縮会議]では,難航のすえ,3月13日に日米妥協案が成立した。全権からの請訓にたいし,海軍軍令部長[加藤寛治]大将らは当初要求していた三大原則がいれられていないとして決裂を主張したが,浜口雄幸首相は,岡田啓介大将らの協力をえて,一応軍令部側の同意をとりつけ,受諾を回訓し,4月22日条約は調印された。しかし加藤は海軍の作戦に欠陥が生ずる旨を天皇に[帷幄(いあく)上奏]し,23日開会された第58特別議会では,野党の政友会は,政府が軍令部の意見をいれずに条約に調印したのは統帥権の侵害であると非難を加え,右翼も政府をはげしく攻撃した。…
※「加藤寛治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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