改訂新版 世界大百科事典 「労働経済学」の意味・わかりやすい解説
労働経済学 (ろうどうけいざいがく)
labor economics
労働経済学という名称が日本で広く使われるようになり,いわば市民権を得るようになったのは比較的最近のことである。けれども今日の労働経済学が分析の対象としていることがらそのものの研究の歴史はきわめて古い。日本ではそれは明治期の学界における労働問題一般の研究に端を発し,その後ドイツ社会政策学の影響を受けた第2次大戦前から戦後にかけての社会政策の長い伝統のもとで発展させられてきた。1950年代半ば以降社会政策研究の蓄積を生かしつつも,一方ではアメリカにおける労働経済学の発展に触発され,他方では日本の労働市場や労働組合運動の実態分析の蓄積の上に立って,労働問題の研究を,市場機構の実証分析をより積極的にふまえた〈労働経済論〉として発展させようという動きが強まり,今日における〈労働経済学〉の萌芽を形成するに至った。このように労働経済学は,それぞれの国の歴史的条件,政策意識,分析理論枠組みの発展のあり方に規定されて独自の展開をしてきているが,あえて共通の特徴を挙げるなら次の3点を指摘することができよう。(1)政策科学であること。(2)実証科学であること。(3)歴史的発展によって強く規定されていること。
労働経済学がlabor economicsの名のもとに最も体系的に完成されているとされるアメリカの場合,19世紀末以来のJ.R.コモンズ,T.B.ベブレン,W.C.ミッチェルらの制度学派によるアメリカの労働史,社会史,制度史の研究が土台となっているが,現代の労働経済学への発展の直接の契機となったものは,一つには1930~40年代における労働移動研究を端緒とする労働市場分析の発達,いま一つは40~50年代における労働組合研究を軸とする労使関係論の発展であり,50年代にはこれらを総合した体系が完成した。この学問体系が労働市場現象の実証分析に目覚めつつあった日本の学界に強い刺激をもたらしたのである。その後,計量経済学的分析手法の発展を背景として,価格理論もしくはミクロ経済理論の実証的な応用,さらに人的資本理論の導入などにより,労働市場分析はいっそう精緻(せいち)な形で発展させられつつある。このような研究発展の系譜をかえりみて共通にいえることは,労働経済学がそれぞれの国の歴史的背景に制約されながら,その各段階での政策的要請にこたえつつ学問体系の発展が促されてきたということである。
さて,そのような労働経済学が今日の時代的状況のもとで,その分析枠組みの中に含むべき課題は何かについて述べよう。
労働経済学の分析対象は,労働市場と労使関係の二大領域に大別されよう。労働市場分析では,労働者もしくは労働者家計の就業その他の行動,雇主もしくは企業の雇用その他の行動,そしてその相互作用による賃金の決定,賃金構造の形成と変動,市場における労働力配分などの,いわば労働市場機構のミクロ分析が主要な課題となる。また同時に,マクロ経済における労働力の配分,失業,所得分配,賃金や物価の変動,さらに経済発展過程における産業ならびに就業構造の変化,人的資本の蓄積なども重要な分析課題である。
労使関係の分析においては,市場における賃金や雇用機会配分の決定のプロセスにおける交渉のあり方,それを規定してくる労働運動,労働組合組織,企業内労働市場の組織構造などが分析課題となるとともに,労使関係のあり方と労使の対立・協力関係,労働者の意識やモラールの問題,ならびにそれが国の経済活動や生産性動向にもたらす影響などが主要な分析対象となるだろう。
これらの分析枠組みの中で重視されなくてはならないことは,市場の自律的な資源配分機能が所得分配や雇用機会の配分,失業などに関してどのような帰結をもたらすかということであり,その是正のために制度や政府の政策がいかなる役割を果たしうるかという視点である。労働経済学はすぐれて政策の科学であり,市場や労使関係分析の重要なねらいの一つは,政策介入の必要性,必然性そしてそれが果たしうる役割を確認することにある。
執筆者:島田 晴雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報