改訂新版 世界大百科事典 「人的資本理論」の意味・わかりやすい解説
人的資本理論 (じんてきしほんりろん)
human capital theory
資本とは投資によってその価値を増大させることのできる財貨であるが,この考え方を投資対象としての人間に適用したものが〈人的資本〉の概念である。すなわち,人間の経済的価値を投資によって高めることができるという考え方である。人的資本理論は1950年代以降とりわけアメリカの経済学界を中心に活発な研究が行われるようになり,今日では経済学の重要な研究分野として定着するようになった。人間の経済的価値を決める重要な尺度はその人の生産的な能力や資質であり,それは市場で賃金率の形で評価される。人的投資とは人の生産的能力や資質を高めるための費用を伴う諸々の活動を指すが,人的資本論で考慮される代表的な投資の例としては,教育,訓練,情報収集活動,栄養摂取などがある。
人的資本論は経済学説史的には目新しいものではなく,A.スミス,J.B.セー,F.リスト,J.H.vonチューネン,A.マーシャルらにも,基本的には人的資本に類することへの言及がある。スミスの言葉を借りれば,教育,研究,徒弟修業などを通じて労働者の身に付けられた有用な能力は〈いわば彼の一身に固定され実現されている資本である〉という考え方である。古典派経済学者の抱いていた人的資本の発想はその後の新古典派経済学の中では労働力の質の違いに還元されてしまい,分析枠組みからは捨象された。
人的資本の考え方が1950年代末以降あらためて脚光を浴び発展させられるようになった背景には,発展途上国援助等にからんで経済発展における教育と人的資源の役割が再認識されたこと,国際貿易の基礎条件である資源賦存状態の重要な要素として労働力の生産的資質が見直されたこと,公共経済学における費用-便益分析手法が人的投資の収益率や投資決定の分析に応用されたこと,労働経済学における賃金構造,訓練,移動などの現象や労働力政策のあり方を解明する理論として注目されたこと,などが挙げられる。1960年代にはT.W.シュルツ,G.ベッカー,J.ミンサーらが続々と人的資本概念に基づいて教育投資,訓練,賃金構造などの新しい分析を試み,新しい教育の経済学,労働経済学の急速な発展をみた。今日,これらの多くの分野で人的資本理論に基づく研究は理論的にも実証的にも活発に進められており,新しい理論的解釈や事実の発見が旧来の理解を塗りかえつつある。人的資本理論の応用によって,たとえば人々はいつどれだけの教育を受けようとするか,どのような条件の下ではどれだけの訓練を行い,または訓練を受けるのが適当か,経済的に合理的な昇給曲線はどのようなものか,労働者の職探しや移動を規定する要因は何か等々,教育や労働市場に関する多くの疑問が解明されつつある。
執筆者:島田 晴雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報