労働力商品をめぐって売り手(労働者)と買い手(資本家)の間で取引が行われ、この需給関係によって賃金などの労働条件が決定される場を労働市場という。労働市場が成立する前提として、労働力(労働する際に行使される人間の身体的および精神的諸能力)が商品となることが必要である。そのためには、人格的、身分的に自由であり、かつ生産手段を所有せず、労働力を販売する以外には生活できない人々が存在していなければならない。
[伍賀一道]
一般の商品の需給関係と労働力商品の需給関係とでは性質が異なる。前者では需要と供給は別々の要因によって規定されているが、後者の場合、資本の蓄積過程が労働力の需要と供給に同時に作用している。まず、資本の蓄積は生産過程において社会的生産力の発展に依拠して剰余価値(利潤)を生産する方法の発展を促す。この過程は資本の有機的構成の高度化(生産手段の購入に充当される資本に比べて、労働力の購入にあてられる資本が相対的に減少すること)をもたらし、相対的過剰人口(各種の形態の失業者)を生み出す基本的要因となる。相対的過剰人口の存在は、就業労働者に対して長時間労働、過度労働や賃金の切下げを強いる圧力となる。これによって就業労働者がより多く労働したり、賃金の低下を家族の多就業で補うことになれば、労働力の供給過剰はいっそう増大する。労働者は労働力の販売を一時制限して労働市場における有利な状況を待つことができないということも、労働力の供給過剰を促進する。
このようにマルクス経済学では、需要(資本蓄積)と供給(労働者人口)が相互に独立した関係にあって、両者の量的関係で賃金が決定されるという労働市場のとらえ方を批判する。資本は労働市場の需要面だけでなく供給の側面にも同時に作用しており、資本蓄積はそれ自身のなかに労働供給の限界を克服し、相対的過剰人口を絶えず生み出す機構を備えていると考える。
[伍賀一道]
近代経済学に依拠する労働経済学labour economicsでは労働サービスが取引される場が労働市場で、そこで労働サービスの価格(賃金)とその取引量(雇用)が決定されるが、その際、労働サービスの需要(企業)と供給(労働者)は相互に独立した要因によって規定されるととらえる。賃金が高くなるにつれて労働供給量は増加し、他方、労働需要量は減少するので、横軸に労働需要・供給量、縦軸に賃金を取ると、労働供給曲線は右上がり、労働需要曲線は右下がりになる。完全競争的労働市場では、労働供給曲線と需要曲線の交点で労働サービスの取引が成立し、賃金と雇用量が決定される。労働者が市場で成立する賃金額を受け入れる限り雇用されるので、非自発的失業は発生しない。しかし、現実の労働市場はこのように競争的ではなく、労働需給の情報が偏在していること、労働者の年齢や職種、地域をめぐって需給の間でミスマッチがあること、労働組合の抵抗によって賃金が十分に低下しないことなどのため、失業が発生する。
労働経済学の労働市場論では、(1)労働移動を通じて行われる労働の職業間、産業間の配分と再配分の問題、(2)労働移動の契機となる相対的な労働条件の格差の形成過程の問題、(3)労働供給量を規定する要因、(4)労働需要の構造、(5)それに対する労働供給の適応・不適応の問題などが分析対象となる(氏原正治郎編『日本の労働市場』)。また、労働市場を、企業横断的に労働力の需給調整が行われる機構としての外部労働市場と、企業内部における労働力の需給調整(労働者の配置や昇進、賃金管理など)の場である内部労働市場に分けてとらえる理論がある。大企業では専門的技能養成を企業内で行うため、労働移動を抑制する傾向(長期雇用)がみられるが、内部労働市場はこうした実態に着目した理論である。
イギリスなどの西欧諸国では産業革命を経て、一方で機械工などの男子熟練職種の労働市場が、他方で女性や年少者を中心とする不熟練職種の単純労働市場が成立した。熟練労働者は職業別労働組合を組織し、徒弟制度やクローズド・ショップ政策を用いて組合員の数を制限し、労働市場における供給独占によって労働者に有利な条件の獲得を資本家に迫った。さらに職業別組合は失業手当など共済制度を整えた。独占資本主義段階に入って、大量生産方式が普及し熟練職種の解体が進むようになると、熟練労働者の労働市場における優位性は崩れた。不熟練労働者や失業者の増大を背景に、職種を超えて同一産業に従事する労働者を組織した産業別組合や一般組合が職業別組合にとってかわった。労働力の供給制限という方法はもはや通用せず、その運動は最低賃金制や社会保険など社会政策的諸制度の実現を国家に要求する方向へ進んだ。第二次世界大戦後、ソ連に対抗するために、欧米の先進資本主義国家は資本に高利潤を保障しつつ失業者の救済を図る完全雇用政策をとって労働市場への介入を強めた。
しかし、1973年の第一次石油危機を契機に世界経済は停滞し、スタグフレーションが進むなか、完全雇用政策は破綻(はたん)した。労働政策分野では公的保障(失業者に対する生活保障や公的就労事業の創設など)を抑制するとともに、労働市場において供給メカニズムが発揮されるようにすべきとする考え方が強まった。これは1980年代以降、労働市場の弾力化、規制緩和政策として展開された。労働市場の弾力化推進論は、労働市場の硬直性が低生産性の要因となり、失業の増大をもたらすので、雇用の硬直化を避け、規制緩和による労働コストの圧縮を通して企業の競争力を回復させて雇用の拡大を進めるべきとした。
[伍賀一道]
日本の場合、産業資本主義の確立と労働市場の形成の過程は、農村を支配した寄生地主制、小作制度に規定されて独特なものとなった。当時の基幹部門である繊維産業の労働市場に包摂された若年女子労働力は、高率小作料の重圧を受けた零細小作農家の子女で、その賃金は家計補助的水準にまで押し下げられていた。他方で造船や車両製造などの機械工に代表されるような、労働力流動性が高く、横断的な男子熟練労働市場も形成されたが、量的には前者が主要な位置にあった。工場労働者の構成上、男子労働者が女子を上回るのは1930年代になってからである。独占資本主義段階になると、企業内で熟練工の養成が行われるようになり、横断的であった男子熟練労働市場は企業別分断化が強められた。また大企業労働市場と中小企業労働市場の分断が深まった。
第二次世界大戦後、高度成長期には、大企業が若年労働力の採用を増やしたため一部に労働力不足現象が生じた。一方、技術革新にも適応しきれない中高齢労働者は、大企業から排除され中小企業労働市場へ下向移動した。高度成長が破綻し低成長に移行した1970年代後半以降、大企業では正規労働者の削減が行われ、他方でパートタイマー、社外工、派遣労働者などの非正規雇用が活用されるようになった。こうした労働市場の変化は、1990年代以降、グローバル経済化の進展および規制緩和政策の推進によっていっそう顕著になった。総務省の2007年「就業構造基本調査」によれば、非正規雇用は全労働者の35%余に達している。
[伍賀一道]
『氏原正治郎編『講座労働経済 第1巻 日本の労働市場』(1967・日本評論社)』▽『尾高煌之助著『労働市場分析』(1984・岩波書店)』▽『氏原正治郎・高梨昌著『日本労働市場分析』上下(1971・東京大学出版会)』▽『永山武夫編著『新版 労働経済』(2000・ミネルヴァ書房)』▽『太田聰一・橘木俊詔著『労働経済学入門』(2004・有斐閣)』
経済の発展や景気変動に応じて,人間の肉体的・精神的諸能力の総体である〈労働力〉という特殊な商品を種々な職業,産業,地域に配分,再配分しながら,労働力商品の価格(賃金)が決定される機構を労働市場という。労働力商品の買手である労働需要は,資本の蓄積をともなう経済発展によって長期的,短期的に変動する。短期的には,景気変動によって量的に変化し,長期的には,技術的進歩をともなう産業構造の高度化によって労働需要の質的構造が変化する。
経済の発展・成長にとって,(1)低賃金労働力の供給が容易に得られる状況であれば,それだけ利潤が増大するから,資本の蓄積量は増大し,経済発展しやすい,(2)新しい機械・設備,生産方法に適応能力の高い労働力の供給が容易に得られる労働市場状況であれば,技術的進歩が起きやすく,産業構造の高度化が実現しやすい,(3)賃金が上昇傾向にあるならば,コスト引下げのための労働節約的技術の採用が刺激され,産業構造の高度化を促進する可能性が強まる,など労働市場での労働供給の諸条件のいかんは重要な要素となっている。
それならば,労働需要の量的・質的変動に対する労働供給は,いかなる法則に立っているかが次に問題となる。労働供給の総量は総人口の変動によって規制されるが,総人口のすべてが労働力人口ではない。総人口のなかでの生産年齢人口の割合,生産年齢人口のなかでの労働力人口と非労働力人口との割合(これを労働力率という)によって労働供給量は変動する。そして,この労働力率は,国民の標準的な生活水準,生活様式,家族形態などをはじめ,勤労観,家庭観,教育観,社会観などの価値意識を含む経済的・非経済的要因によって影響を受けながら不断に変動する。
また労働力という商品は,通常の物品とは異なって,資本によって生産できる商品ではなく,人間の生活を通じて生み出される商品で,このための期間は長期にわたるため,景気変動など短期的な労働需要の変動をただちには充足しにくい性質をもっている。このことから,不断に変動する労働需要を充足するための相対的過剰人口の存在が不可欠の前提となっている。相対的過剰人口が存在しなければ,労働需要の増大→労働供給の不足→賃金の高騰→利潤率の低下という経路をたどって,経済発展は大きく阻害されることとなる。この相対的過剰人口はさまざまな形態で存在し,失業保険制度が完備されている場合には,完全失業者として顕在化するが,多くの場合,不況期にはより賃金・労働諸条件の低い雇用・就業分野に隠れ,〈偽装雇用〉の形態をとって存在している。こうした雇用を〈第2次的失業〉もしくは〈不完全就業〉とも呼び,これが家族主義的零細自営業の就業者として存在する場合には〈潜在的過剰人口〉と呼ばれてきた。また,労働市場に本来なら現れない非労働力である家庭の主婦や老齢者が,家計収入の補助を目的として労働市場へ参入することが多い。このような非労働力と労働力との間を出入りする家庭の主婦や老齢者を縁辺労働力と呼ぶ説もあるが,これらの層の労働力率の変動は,経済の短期変動にとって無視できない労働供給源である。
ところで,労働需要は産業構造の高度化や技術的進歩によって質的構造が変化する。こうした労働需要の質的構造の変化に対する労働供給の適応は,(1)既経験の成熟労働力の再教育・再訓練,(2)転換可能な職種の労働力の仕事の縄張りの拡大と移動,(3)未経験の未成熟労働力の養成と配分,とりわけ青少年労働者の適応が重要で,これらによる以外には方法はない。
いうまでもなく,労働需要の質的構造に対する適応能力は,青少年の未成熟労働力が最も高い。なぜなら,彼らは中高年の成熟労働力に比べれば,はるかに養成費は少なく,相対的低賃金の労働供給で,しかも単身者であるために住居移動をともなう労働移動も容易で移動コストも安いからである。したがって,これらの未成熟労働力の供給が豊富な労働市場状況であるならば,労働市場の質的構造変動をともなう経済発展が起きやすく,逆に,成熟労働力に対しては失業の圧力が強まり,相対的低賃金分野である衰退産業や職業への滞留と流入を呼び起こしやすい。第2次大戦後,日本の昭和30年代に始まった高度経済成長は,青少年労働力の大量供給に支えられて実現したもので,この時期にも中高年労働力は絶えず過剰な存在とみなされ,中高年労働力の失業,再就職難が重大な経済社会問題とされてきた。昭和50年代に入ってからは,青少年労働力の供給量は急減し,労働力人口の年齢構成が急速に中高年齢化しはじめてきているので,労働供給の適応力が低下し,経済発展のための労働力供給基盤は急速に失われつつある。このためにこそ,中高年労働力の再教育・再訓練の組織的・体系的実行が焦眉の政策課題となっている。これに失敗するならば日本の経済は停滞せざるをえなくなり,国民の生活水準も悪化する可能性がある。
ところで,労働力商品は,労働の支出によって生産される商品やサービスの種類によって異なり,体力,教育によって獲得された基礎的・技術的素養,訓練や経験によって獲得された技能,勤労意欲,職業意識・規律などで表現される労働力の質を異にしている。このように規定された労働力の質が等しいか類似している労働者群を〈職種〉と呼ぶ。この職種の種類や内容は,経済発展の段階や国によって違っている。このようなことから,現実の労働市場は,労働力の質を異にする職種別労働市場として形成され,経済発展につれて変動することになる。労働市場の類型は次の三つである。
第1は熟練労働者の職業別閉鎖労働市場である。熟練労働者は職人とも呼ばれるように,この熟練養成はその期間が長期で経験的習練を必要とし,養成方法は多くの場合徒弟制度に依存している。そして訓練を終えた労働者は,仕事の範囲やできばえ,能率が標準化されている点に特徴がある。したがって賃金は職種ごとの一律賃金となる。この熟練労働者と類似したタイプの労働者が専門・技術職で,近年,これは急速に増大しつつある。
第2は不熟練労働者の地域別一般労働市場である。不熟練労働は,技能習得のための教育訓練期間が短期で,一定の肉体的条件さえ満たせばだれでもが容易に入職可能であるために,産業間,職業間の労働移動が起こりやすいが,住居移動は容易でないために,地域別閉鎖労働市場として形成される。これは,日雇労働者,臨時労働者,パートタイマー,アルバイトなどの雇用形態で存在し,賃金は日給,時間給で,同一地域内では平準化する傾向が強い。
第3は半熟練労働者の企業閉鎖的労働市場である。これは,20世紀に入って新たに生まれた熟練労働者で,大量生産技術による機械化と流れ作業化を進めた金属・機械工業の巨大経営でみられる労働者群である。大量生産技術は製品・部品の規格化・標準化を進めたが,これは同時に労働の規格化・標準化をも進め,従来の熟練労働を多数・多種類の職務に分解させてきた。この分解された職務は,経験の少ない労働者でも簡単に遂行できる易しい職務から,熟練と経験を必要とする職務にいたるまで,同一の職種内でも熟練の階層性がある点に特徴がある。しかもこれらの半熟練労働は,技術独占を支柱にした独占的大経営で支配的であるために,労働者の企業間労働移動が困難となり,企業別閉鎖労働市場を形成することになった。このようなことから,特定の企業内部で易しい職務からより難しい職務へ昇進し,賃金もこれにしたがって上昇する年功的職場秩序が生まれた。これが内部労働市場といわれるものである。俗に日本的労使関係の特徴とされる年功賃金,終身雇用,企業別組合は半熟練労働市場の産物で,これは日本だけの特徴ではなく,大量生産技術をとる産業ではほぼ世界各国共通にみられる。経験年数と熟練形成の関係は図のようになる。
日本の労働市場の特徴は,(1)本工,正社員という雇用契約期間の定めのない労働者(この多くは半熟練労働者と事務・管理労働者),(2)雇用契約期間の定めのある臨時工,パートタイマー,アルバイトなど非正社員,(3)当該企業と同じ事業所で働いてもそれと雇用契約関係のない社外工,派遣社員,という三つの雇用形態別に労働市場が階層的に形成されている点にある。昭和50年代以降,正社員市場は停滞過程に入り,パートタイマー,アルバイト市場と派遣社員市場が増大しつつある。そしてこれの増大を大きく支えているのが,子育てを終わって労働市場へ再登場する中高年の女子である。
執筆者:高梨 昌
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…労働市場は,地域,職種,労働力のタイプ,企業,労働組合などを単位として細分化されていることがある。企業や労働組合のように,組織を単位として形成される労働市場を内部労働市場と呼ぶ。…
…これら雇用,金融関係も競争的要素を含んで貨幣支払によってなされるところから,それらを財市場に擬すことができるようになった。すなわち雇用は労働力商品ないし労働サービスの売買で労働市場をなし,金融は貨幣使用や債券売買,いわゆる金融商品の売買であり,金融市場においてなされるとみなされることになった。こうして市場は,場所からいっても機能からいっても局所的なものでなく,社会的機能をもつがゆえにそうなるのだが,他の社会制度からの限界づけや他の制度との調和を伝統,慣行,法規則などのかたちで制度に組み込んだ売買の制度であるといえる。…
…日本ではそれは明治期の学界における労働問題一般の研究に端を発し,その後ドイツ社会政策学の影響を受けた第2次大戦前から戦後にかけての社会政策の長い伝統のもとで発展させられてきた。1950年代半ば以降社会政策研究の蓄積を生かしつつも,一方ではアメリカにおける労働経済学の発展に触発され,他方では日本の労働市場や労働組合運動の実態分析の蓄積の上に立って,労働問題の研究を,市場機構の実証分析をより積極的にふまえた〈労働経済論〉として発展させようという動きが強まり,今日における〈労働経済学〉の萌芽を形成するに至った。このように労働経済学は,それぞれの国の歴史的条件,政策意識,分析理論枠組みの発展のあり方に規定されて独自の展開をしてきているが,あえて共通の特徴を挙げるなら次の3点を指摘することができよう。…
※「労働市場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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