医療事故訴訟(読み)いりょうじこそしょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「医療事故訴訟」の意味・わかりやすい解説

医療事故訴訟
いりょうじこそしょう

医療の実施の過程で生じた事故について医療従事者(医師、看護師など)に過失ありとして法的責任を求める裁判をいう。医療過誤訴訟という場合もある。なお、医療事故に関する裁判のほかに、医事に関するすべての裁判、たとえば薬害に関する裁判や医療関係者、医療施設に対する法的規制(医師法、医療法など)に対する違反を問う裁判などを含めて、医事裁判あるいは医事訴訟ということばが用いられることもある。

[小松 進]

訴訟増加の背景

近年、医師の診断・治療などに過失ありとして損害賠償を求める裁判が著しく増加している。たとえば、1997年(平成9)には係争中の医療事故訴訟が約3000件(推計)あった。これは、10年前に比べて8割増の数字である。また、1998年には新たに提起された訴訟が632件であったが、この数字は年々増加し2007年には944件と約1.5倍に達している。医療事故訴訟が増加した背景には、医療をめぐる社会環境の変化がある。

 第一に、医療供給量の増大があげられる。社会福祉、医療保障の向上に伴って国民が容易に医療を受けられるようになったこと(医療の大衆化・大量化)や、医学の進歩により新しい療法・技術が出現して治療の可能性が増大したことなどにより、医療の行われる機会が増え、同時にミスの発生や新たな危険が現れる機会も増大した。

 第二に、医師と患者の関係の変容である。かつては医師と患者との間には親密な個人的・家族的信頼関係が存在する場合が多く、それが患者の不満を緩和・抑止することにも役だっていた。しかし、医療の大量化、多数の大病院の出現により医療が事務的、機械的に処理される、いわば非人格的な「契約型」の医療に変化したために、治療結果に不満があるときは容易に法的紛争へもつれ込む気風が生じてきた。また、マスメディアによって提供される医療に関する情報や医療事故訴訟についての報道等も、患者・遺族が訴訟を決意する際のよりどころになっていることも否定できないであろう。

 第三に、国民の権利意識伸長があげられる。人間の尊厳の思想が医療の領域にも浸透し、健康権、いわゆるインフォームド・コンセントinformed consent(患者が医師から治療法などについて「十分に説明を受けたうえでなされる同意」)に基づく患者の自己決定権といった観念が定着しつつある。最高裁判所も、宗教上の理由から輸血拒否を表明している患者の手術に際して、救命のために輸血した医師側に対して「自己決定権」の侵害を理由に損害賠償責任を認めている(平成12年2月29日最高裁判決)。

 このような事情から、国民の適正な医療への要求が、法的要求として現れてきているといえる。これまで単に医療の客体として扱われがちであった患者が、医療の受け手としての地位・権利を自覚し、その侵害に対しては法的救済を求めるようになってきたと考えられる。

[小松 進]

医療事故と法的責任

医療は傷病の治療、疾病の予防を目的として行われるものであることはいうまでもないが、さまざまの要因から、つねにその目的が達成されるとは限らない。治療が奏効せずにかえって病状が悪化したり、手術によって患者が死亡したり、あるいは投薬によってショック死したりするなど、いわゆる医原性疾患とよばれるものによって、患者の生命・身体に悪い結果がもたらされる場合もある。こうした場合を総称して医療事故とよぶことができる。しかし、医療事故のすべてが法的責任の対象となるわけではない。医療行為に過失があり、さらに医療行為と悪結果との間に因果関係が存在する場合に初めて医療事故の法的責任が問われることになる。医療事故について問題となる法的責任は、民事責任刑事責任である。

 この場合の民事責任は、医療事故によって患者側に生じた損害に対する賠償責任であり、法律上の根拠としては、不法行為(民法709条)と債務不履行(同法415条)とがある。いずれを請求の理由とするかは原告(患者側)の自由である。不法行為とは、故意または過失で他人の権利を侵害し、損害を与えた場合に賠償責任を認めるものであるが、訴訟法上、原告に過失および因果関係の立証責任が課せられている。通常、患者側(原告)は医学的知識に乏しいうえに、患者側の証人を引き受ける医療関係者が少ない。また、医学的に解明されていない領域もあるなど、立証に困難を伴うことが少なくない。そこで近年、債務不履行に基づいて損害賠償を求めるケースも増えてきている。債務不履行は契約違反、すなわち、診療契約に基づく債務の履行が不完全であったこと(悪結果の発生)を理由として賠償責任を認めるものである。この場合は、原告側で債務の履行がない事実を証明すれば、被告側が不履行について帰責事由(過失、因果関係)の存在しないことを証明しない限り損害賠償責任が認められるので、原告側の立証責任は軽減されることになる。不法行為を理由とする場合は、加害者および損害を知ったときから3年、または治療が行われてから20年以内に訴えを起こす必要がある。債務不履行の場合は、10年が消滅時効の期間である。

 医療事故の刑事責任は、業務上過失致死傷罪(刑法211条1項)が中心である。この罪は業務上必要な注意を怠り、それによって他人を死傷させることであるが、この場合も過失の有無、因果関係の存否が主要な争点となる。しかし、民事責任においては私人間における損害の衡平な分担が基本となるのに対し、刑事責任の場合は国家の刑罰権を発動することが妥当か否かという観点にたつため、医療事故の刑事責任が認められる事案はそれほど多くはない。

 ところで、だれが法的責任の主体となるかについては、民事責任の場合と刑事責任の場合とではやや異なっている。民事責任では、不注意な医療行為を行った本人が不法行為責任を問われるほかに、病院長や病院の設置者が勤務医らの過失行為について使用者としての責任(民法715条)や債務不履行の責任を問われることがある。他方、刑事責任については、自己の行為についてのみ責任を負うという原則があるため、医師には責任がなく、補助者たる看護師だけが問われることもある。たとえば、北海道大学の電気メス事故については、メス器のケーブルを誤接続した看護婦(当時)だけが刑事責任を問われた(1976年3月18日札幌高裁判決)。

[小松 進]

医療事故と過失・因果関係

医療事故の法的責任を考える場合、もっともむずかしい問題は、医療の場における過失をどうとらえるか、また原因と結果の関係がどの程度明らかにされればいいのかという点である。

 過失とは、一般に注意義務違反、すなわち注意すれば結果の発生を予見して避けることができたのに、不注意によって結果の発生に至った場合とされる。医療は人の生命、健康にかかわるものであるから、これを行う者には「危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務」(1961年2月16日最高裁判決)が要求されるのは当然である。この場合の最善の注意義務は、行為当時の医学水準に照らして判断されなければならないが、個々の場合に注意義務の具体的内容を確定するのに困難を伴うことも少なくない。それは、医学が絶えず進歩していること、さらに医学の専門分野が著しく細分化されていること、医療施設の充実度、あるいは処置の緊急性など種々の要素を考慮に入れなければならず、そのうえ医学水準も一義的に確定できるものではないなどの理由からである。たとえば、未熟児網膜症について眼底検査、光凝固法(おもにレーザー光凝固装置を用いた眼底の治療法)による処置を欠いたことの医師の過失の有無は、その当時、前記の検査の実施、新療法が医学界の一般的知識となっていたかどうか、新療法が可能な施設の有無といった点を考慮して判断されている(1982年3月30日最高裁判決)。

 次に、因果関係であるが、不注意な医療行為と悪結果との因果関係を細部にわたって明らかにすることは、医学的にもいまだ多くの未知の問題・領域があるため、むずかしい場合が少なくない。そこで判例は、医療事故における因果関係の立証には一点の疑義も許されない自然科学的証明は必要でなく、証拠によって特定の事実が特定の結果を発生させた関係を是認しうる高度な蓋然(がいぜん)性があれば足りるとの原則を示している(1975年10月24日最高裁判決)。しかし、刑事事件では「疑わしきは被告人の利益に」という原則が妥当するため、「合理的な疑いを入れない程度に」証明されなければならず、そのため裁判例も医療従事者の単純ミス(たとえば、薬品の取り違え、医療器具の体内遺留、手術部位の誤りなど)が問題となるものが多い。これに対して民事事件においては、損害の衡平な分担ということから、先に述べた最高裁判決の原則にのっとって、疫学的証明という方法や「一応の推定」といった方法で立証責任を軽減する事例もみられる。

[小松 進]

医療事故・過誤の被害救済と訴訟

医療事故の損害賠償を求める訴訟は、一般の民事事件に比べて原告(患者側)の勝訴率はかなり低い。その理由は、患者側の乱訴傾向等も指摘されているが、基本的には、医療の特殊性・専門性に起因する事情にあると考えられる。

 患者側(弁護士)は医学に関する専門知識が乏しいのが通常であって、訴訟活動を行うのにさまざまな困難に遭遇する。たとえば外国語や略語で書かれているカルテの解読、証拠として提出する医学文献の探索・収集、協力してくれる専門家の獲得のむずかしさ等々である。それゆえ患者側は、医療側に比べ、有効な訴訟活動を行うことに困難が伴うケースが少なくない。患者側が有効な立証活動ができない場合には、裁判所によって低いレベルでの医療行為規範が措定(そてい)されることとなり、患者側の請求が容認されないケースも多くなることとなる。

 こうした事情を背景に1990年代に入ると、医療事故にあった患者の救済、医療事故の再発防止を目ざして関係者の間に新しい動きが生まれた。

 医療事故情報センター(1990年12月)、医療過誤原告の会(1991年10月)、医療事故調査会(1995年4月)などの団体が結成され、それぞれの立場から医療過誤の被害者の救済、医療事故の再発防止、医療の改善などを目的とした活動が展開されている。医療事故情報センターは、「患者側で医療過誤裁判にかかわる弁護士」の団体で、医療過誤事件の解決事例集の発行、カルテの翻訳、医学文献・判例の検索、協力医の紹介など患者側弁護士のための情報交換の活動を行っている。医療過誤原告の会は、医療過誤による被害者とその家族の集まりで、被害者の救済を求めるとともに医療過誤の事実・医療状況を明らかにし医療制度の改善を求めてさまざまな活動を続けている。また、医療事故調査会は、医療者(医師、看護師、薬剤師、助産師など)による組織で、医療事故の被害者の救済・医療事故の防止のためには、「事例を収集・検討しそこから教訓を引き出しそれを日常診療に生かすシステムの確立が必要である」との認識の下に、具体的事例について、公正・中立の立場から、医療内容の検討・評価(意見書・鑑定書などの作成)を行うことによって「患者の権利の確立」「医療の質の向上」を目ざして活動している。

[小松 進]

公的救済システム

医療過誤の損害賠償訴訟の増加に対応するため、2001年(平成13)から東京・大阪・名古屋・千葉・埼玉などの地方裁判所に医療事件を専門に扱う医療集中部とよばれる合議部が設けられ、計画審理・集中証拠調べの方式で裁判の迅速化が図られた結果、審理期間は大幅に短縮された。しかし、医療事故による被害救済をめぐる紛争解決方法は、当事者間の話し合い(示談)と裁判(和解)のいずれかによるのが現状である。裁判外紛争解決システムなど公的救済システムの整備が望まれるところである。

 なお、医療側の損害賠償責任が認められた場合の支払いを担保する保険として、日本医師会などによる医師賠償責任保険がある。また2009年(平成21)1月から産科医療においては、医師の過失の有無にかかわらず分娩に関連して発症した重度脳性麻痺(まひ)児に対する補償と、脳性麻痺の原因分析・再発防止を目的とした産科医療補償制度が発足した。

[小松 進]

『莇立明・中井美雄著『医療過誤法』(1994・青林書院)』『東京・大阪医療訴訟研究会編著『医療訴訟ケースファイル Vol.1、2』(2004、2007・判例タイムズ社)』『医療過誤訴訟実務研究会編『医療過誤と訴訟――その実態と対策Q&A』改訂版(2005・三協法規出版)』『宇津木伸・町野朔他編『医療過誤判例百選』(『別冊ジュリスト』183号・2006・有斐閣)』『塩谷國昭・鈴木利廣・山下洋一郎編『専門訴訟大系1 医療訴訟』(2007・青林書院)』

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