診療の過程で,患者に以外な結果が生じること。医療事故ともいう。ただし,最近では診療過程で意外な結果が生じた場合を医療事故と呼び,医療事故の中で,医師・病院等の医療関係者に民事責任または刑事責任が課されるものを医療過誤と呼ぶ傾向が見られる。
医療においては,患者の健康の回復・増進が患者および医療関係者双方の共通の目的である。しかし,その目的は,つねに達成されるわけではない。かえって悪い結果がもたらされることすらある。医療の目的の達成を阻害するおもな要因としては,(1)個々の患者に個体差があるため,医療には不確実性が内在すること,(2)医療行為のほとんどが,人体に対して直接的に物理的・科学的または生物学的な働きかけをするものであり,本来的に人体にとっては異常な作用を及ぼすものであるがゆえに,ときとして,人体に過度の負担を強い,不可逆的な結果をもたらす危険性を内在させていること,(3)人体のしくみには現代科学をもってしても未解明な点が多いがゆえに,医療はいまだ不完全ないし未熟なものであること,(4)医療関係者も人であり,失敗からのがれることはできないこと,(5)現実の医療は,時間的,地理的,社会的,経済的,その他の制約の下で行われざるをえず,最高水準の医療がつねに行われるとはかぎらないこと,(6)健康の回復・増進という医療の目的の達成のためには,患者の積極的な協力・努力も必要不可欠であるが,そのような協力・努力の得られないことがときとしてあること,等があげられうる。
さて,医療の目的はしばしば不到達に終わるわけであるが,医療関係者に対して彼らが必ず自分の疾病を治癒し寛解させてくれるものとの期待をいだいているのが通常である患者またはその家族は,医療の目的が達成されなかったことからただちに〈意外な〉結果が発生したと受け止めがちである。このような理解は,医療についての十分な認識が欠如していることにも一つの原因があるが,期待を裏切られた患者あるいはその家族は,医師・患者関係において人間性が希薄化していること等を背景として,医療関係者に対して不満をいだくようになり,彼らの民事責任を追及したり,彼らに刑事責任を課すよう告発したりするに至ることがしばしばみられる。
しかしながら,患者の期待に反する結果が生じたというだけで,医療関係者に民事責任あるいは刑事責任が課されるわけではない。なぜならば,民事責任および刑事責任は,それらの内容に若干のニュアンスの差があるとしても,当該結果の発生の未然防止が合理的な程度において可能であったにもかかわらず,その発生を防止できなかった場合に課されるものであり,すでにみた患者の期待に反する結果をもたらす要因の中には,医師にとっては制御できないものがあるとともに,患者の健康の回復・増進といった利益の得られる見込みが大きい場合には,それら要因の存在を承知しながらも,あえて治療を実施することがあるからである。
医療過誤に関する民事責任としては,伝統的には,不法行為を理由とする損害賠償責任が追求されてきた。その理由は必ずしも明らかではないが,損害発生の責任としては不法行為責任が一般的であったことや,不法行為責任とすることが被害を受けた患者やその家族の加害者たる医療関係者に対する非難感情に適合することが,その一因をなしていたと思われる。不法行為責任の主たる成立要件は,加害者に過失があること,および,過失行為と損害との間に因果関係が存在すること,の二つであり,これら要件に該当する事実が存在することの証明責任は被害者側が負担しなければならない。しかしながら,医療過誤裁判にあっては,患者またはその家族がそれら用件の該当事実を証明することはとくに困難である。その理由としては,(1)診療は診察室や手術室といった密室で行われることが通常であり,そこにどのような事実が存在したかを客観的に証明することが困難である,(2)医療事故のほとんどが患者の体内において生ずるため,加害行為から結果発生へと至る因果系列の把握が推測に基づかざるをえない,(3)医療に関する事実のほとんどが専門的知識にかかわる事項であるため,その知識を十分にもたない患者側が現に存在する事実を正確に理解することは困難であり,ましてそれを的確に指摘し,証明することはきわめて困難である,等の事情があげられる。
そこで,交通事故裁判や公害裁判などの経験を踏まえて,最近では,経験則を活用し,間接的事実から,〈過失〉や〈因果関係〉を推定するという考え方が主張され,ひろく受け入れられるようになってきている。同時に,被害者側に過失の証明責任が課されない債務不履行責任を根拠として,医療関係者の民事責任を追及する傾向も大きくなってきている。もっとも,こうした考え方ないし傾向を無限定に容認することは医療関係者に無過失責任あるいは無因果関係責任を課すことにもなりかねず,それらの適正な限定づけの必要性が認識されるに至っている。
医療過誤に関する刑事責任としては,故意責任としての殺人罪・傷害罪,過失責任としての業務上過失致死傷罪をあげることができるが,現実には,後者が問題とされるのが通例であり,前者が問題となるのはまれである。業務上過失致死傷罪の主たる成立要件も,過失の存在および因果関係の存在であり,民事責任の場合とほとんど異ならない。もっとも,それらの証明責任は検察官が負担する点,証明の程度が〈明白かつ確信しうるclear and convincing〉または〈高度の蓋然(がいぜん)性があり,かつ,論理的疑問をさしはさむ余地のない〉程度であることが必要とされる点などで民事責任の場合と異なる。ところで,医療事故に関する刑事責任の場合においてもその成立要件に該当する事実を証明することは民事責任の場合と同様困難であるが,交通事犯,公害事犯,薬害事犯等を契機として生じた過失犯処罰の厳格化の傾向は医療過誤事犯においてもしだいに顕著となり,医療関係者の注意義務の内容は高度化されるようになってきている。しかし,医療過誤事犯の処罰を厳格にすることは,医療を萎縮させ,かえって国民にとって不利益となるという批判も生じてきている。
医療過誤の民事・刑事責任についての考え方の概略は以上のとおりであるが,つぎに,医療過誤裁判の動向を簡単に紹介する。その特徴としては,以下の点を指摘することができ,それらは民事・刑事裁判の両者に共通するものといえる。(1)裁判の数は,戦前に比べて,戦後著しく多くなっており,とりわけ1965年以降の急増ぶりが目だつ。患者側の権利意識の向上や過失犯処罰の厳格化傾向が主たる原因をなしていると思われる。(2)かつては例えば,虫垂炎を胃炎と診断したなどの〈誤診〉とよばれるタイプのもの,あるいは注射部位の誤り,薬剤のとり違え,といった単純ミスが責任追及のおもな対象であったが,近時は,麻酔投与,放射線照射,手術などについての専門的判断の誤りないし専門的技術の欠如が主たる対象となってきている。医療そのものが高度になってきていること,法が医療を聖域視しなくなってきていることによるものと思われる。(3)医療関係者の責任が肯定される割合は,他の類型の裁判において加害者の責任が肯定される割合に比べて低い。すでに述べた証明の困難性によるところが大きいと思われる。(4)しかしながら,医療関係者の責任の肯定割合は,戦前に比較して,戦後はるかに高くなっている。法が医療を聖域視しなくなったこと,そして,それに伴って,医療関係者の責任追及のための法理論が発展してきたことが大きな要因であると思われる。(5)もっとも,1970年ころを境に,医療関係者の責任が肯定される割合は,若干ではあるが低下しつつある。責任の過度の厳格化は,医療の萎縮を招き,国民にとってかえってマイナスとなるとの判断が影響していると推測される。
医療過誤責任の厳格化,そして,過度の厳格化に対する反省というのが日本の医療過誤裁判の動向の特徴であるが,こうした特徴は,欧米諸国にも共通のものとしてみられる。たとえば,アメリカでは,1960年代から医療過誤責任の厳格化が進み,70年代初頭,これに反発する医師団体が責任の軽減化を求めて診療拒否等のストライキを打つといった事態が発生し,その後,多くの州が医療過誤責任を過度に厳格なものとしないための法律を制定するに至っている。
執筆者:新美 育文
医療紛争が多発しているアメリカなどでは医療過誤保険がよく利用されているが,日本でも1963年に医師賠償責任保険が損害保険会社から発売された。その後〈日本医師会医師賠償責任保険〉が,大蔵省の認可を受けて73年に発売され普及している。この保険制度では保険契約者は日本医師会で,同会が損保会社5社と保険契約を締結している。日本医師会会員は会費を納入すれば自動的に被保険者となる。医師の過失の有無を適正に判断する機関として,賠償責任審査会(医学関係学識経験者6名,法律関係学識経験者4名で構成)が設置されている。自己負担額が100万円なので,賠償請求額が100万円を超えるものに限り審査会の審査対象になる。審査会の判定に沿った解決が行われ,賠償金を支払うことになれば,同一医療行為につき賠償額が100万円を超えるものに限り,一被保険者について年間1億円の範囲で保険金が支払われる。
執筆者:黒田 満
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
語源はmedical malpracticeの訳語であり、一般には、医療事故が発生したとして、医療担当者の法律上の責任を問うときに用いられているが、本来は、医療事故がまったく明白な、客観的な過失によった場合とか、司法的な判断の結果が、医師ないしは医療担当者の過失によるとされた場合にのみ適用される語であるといえよう。医療事故が紛争となって取り上げられた場合、ただちに医療行為そのものを評価することはできないのは当然であり、医療事故の一表現として「医療過誤」とするのは、事柄の性質上、妥当ではないといえるが、一般的には使われている。
[饗庭忠男]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
(田辺功 朝日新聞記者 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
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