一般的には,医薬品や農薬など薬物による,ヒトも含めた動植物への被害をいうが,通常は狭義に用いて,医薬品(病気の診断,治療,予防に用いる化学物質)による人間の健康被害のことを指す。第2次大戦後の日本では,多くの薬害が発生し社会問題化したことから,こうした一般的な定義をさらに社会的な面からとらえ,〈多数の人々に重大な損害を与える社会的な出来事〉(砂原茂一,1976),さらには〈資本主義的生産様式から発生する医薬品による災害〉(高野哲夫,1972)と規定する試みもなされている。筆者は,薬害の本質は医薬品の有害性に関する情報を,加害者側が(故意にせよ過失にせよ)軽視・無視した結果,社会的に引き起こされる人災的な健康被害であると考えている。このようにとらえると,〈副作用はやむをえない場合があるが,薬害はそうではなく,防止・根絶しうる〉ことになろう。以下,狭義の薬害について記す。
医薬品の有害作用についてはさまざまな分類が試みられている。その発生機序の面からは,砂原が(1)過量,(2)非耐容(強すぎる反応),(3)副次的な反応,(4)特異体質,(5)過敏症,(6)二次効果,(7)薬物相互作用をあげている(1976)。また福田英臣は,以上の(1)~(5)に加え,(6)薬物の蓄積,(7)遅延反応をあげている(1979)。医薬品が生体に及ぼす毒性の面からは,一般毒性(急性・亜急性・慢性毒性)と特殊毒性(生殖への毒性,局所刺激性,依存性,抗原性,発癌性,変異原性など)に分けられる。標的臓器(毒性の生ずる臓器)の面からは,高野は(1)血液,(2)循環器,(3)肝臓,(4)腎臓,(5)胃腸,(6)皮膚,(7)精神神経系に分けて考察している(1979)。
医薬品の有害作用(副作用)の評価に際しては,次の諸条件を考慮すべきだとする砂原の指摘は重要である。すなわち,(1)効果とのバランス,(2)代用薬の有無,(3)副作用症状の重さ,(4)病気の種類とのバランス,(5)副作用の可逆性,(6)副作用の頻度,(7)患者の特殊な状態とのかかわりあい。
薬の有害作用の発生頻度については,調査方法により差があるが,高杉益充がまとめた海外での10種の入院患者の調査では1.0~35.0%であった(1973)。アメリカでは,ある病院では入院患者の20%が,別の病院では1年間の内科の死亡患者の25%が,薬物の副作用が原因であったとする報告(1971)もある。
1950年ころ以降の日本には,前述の砂原の指摘を考慮しても,とうてい容認できない薬害が多発している。すなわち,主要なものだけをあげても,ペニシリンショック(1953-56年に108人が死亡),サリドマイド(1958-63年に疑いも含め936人出生,81年5月までの認定児309人),アンプル風邪薬(1959-65年に38人が死亡),キノホルム(1970年までに推定1万人以上が中毒),コラルジル(1963-70年に推定1000人以上中毒),ワクチン(1994年までに認定された被害者3626人),筋短縮症(1975年の検診で3039人診断),血糖降下剤(1974年までの十数年間に被害者500人と推定),フェニルブタゾン類(1952-82年に18人死亡),薬害エイズ(1996年までに血友病患者1872人がHIVに感染),ソリブジン(FU系抗癌剤との併用で1993年9~10月に15人が死亡),塩酸イリノテカン(臨床試験で477人中20人が死亡。市販後も死亡者が続く)などがある。
日本における薬害多発の社会的要因として,片平洌彦は次の8点を指摘した(1981)。(1)薬害多発の推進・促進・助長要因として,(a)製薬企業の安全性を軽視・無視した利潤追求,大量生産・大量消費政策(製薬会社は厳しい企業間競争のなかで,多額の宣伝費を投じて,医薬品の大量消費の需要を喚起している),(b)国の(大)企業追随,安全性軽視の医療・薬事行政(従来の薬事政策は医薬品供給の確保に重点が置かれ,安全性の確保は従となっていた。また日本独特の診療報酬制度(〈医療保険〉の項参照)が薬剤の多用を促した),(c)医療従事者,とりわけ医師の間に従来みられた薬物療法への安易な姿勢傾向,(d)医学・薬学界の製薬企業追随傾向,(2)薬害多発を防止できなかった要因として,(a)医学・薬学分野における科学性確立の立遅れ,(b)医療従事者,とりわけ医師の薬害問題取組みの立遅れ,(c)国民への保健教育の立遅れ,(d)国民の保健衛生,人権意識の全体としての立遅れ。薬害多発の社会的原因を,新薬学研究者技術者集団は要約して〈医薬品の公共性と企業の私的性格との矛盾〉(1973)としているが,こうした表現をとるなら,〈安全性を軽視し,商品としての薬を最大限に消費させようとする資本の論理と,その使用を医療上必要な最小限にとどめようとする保健医療の論理の矛盾〉(片平,1980)によると考えられる。
薬害を予防するため市民個人としてできることは,(1)既発生の薬害問題を学ぶ,(2)病気の予防と健康の増進をはかる,(3)病気の早期発見・早期治療に心がける,(4)薬物療法以外の治療法の取入れ,(5)薬を服用する際に指示された諸注意をよく守り,疑問な点は専門家に聞く,(6)病気の後遺症がある場合,その早期回復,機能訓練をはかる,などである。こうしたこととともに,社会的な対策としては,(1)薬事法,医薬品副作用被害救済基金法の再改正,(2)医療保険制度の改革,(3)予防医療,地域医療の実践・確立,(4)臨床薬理学,社会薬学などの確立,(5)予防医学,社会医学,疫学などの発展,(6)リハビリテーション医学・医療の発展,(7)保健医療に関する研究・教育の充実,などが必要である。筆者は1996年6月5日に衆議院厚生委員会に参考人として招致され,要旨以下のような提案を行った--企業=医薬品にかかわる検討と意思決定を民主的・科学的に行う。生命・健康被害への賠償額を大幅に引き上げる(実際は裁判所の課題)。行政=医薬品の審査・規制体制の抜本的改革・情報公開と,国民の公的監視システムの導入。企業から政治家への政治献金禁止と,役人の関連企業等への天下り禁止など,企業との癒着を断つ。医療=副作用報告の積極化・迅速化,治験の倫理化・科学化,薬物治療の相対化,企業との癒着を断つ。研究・教育=企業との癒着を断ち,臨床薬理学・薬理疫学・社会薬学など,医薬品の安全性確保に役立つ研究・教育を公的に抜本的に拡充する。
執筆者:片平 洌彦
医薬品および医薬品製造業・販売業を規制しているのは薬事法(1960)である。しかし,医薬品の安全性確保という面からみると,日本の薬事法制は十全なものとはいえなかった。旧薬事法の制定当時(1948)は,薬事法の目的は医薬品の供給を確保するという点にあり,規制内容も,国が積極的に安全確保の義務を負うというよりも,むしろ不良医薬品を取り締まる衛生警察法規であった。取締法規的な考え方は,現薬事法にも引き継がれていた。ところが,1950年代末からのサリドマイド事件を契機として薬事行政の不備が明らかになり,新薬の製造承認手続などが厳格になった。けれども,この事件を契機として諸外国においては薬事関係法の改正など,薬事行政の抜本的見直しが行われたのに対して,日本では,行政指導によって対応措置がとられたにすぎなかった。
しかし,スモン訴訟などの諸判決で薬事法制の欠陥が厳しく指摘され,政府も法律改正に取り組まざるをえなくなり,1979年に薬事法の大改正が行われた。薬事法の目的として医薬品の安全性確保がうたわれ(1条),安全確保のための措置が法定された。医薬品の製造・輸入の承認に関して安全性等についての承認基準を明らかにしたこと(14条など),医薬品の再審査・再評価の規定をおいたこと(現14条の3,現14条の4),危険な医薬品の販売停止,回収,承認取消しを規定したこと(69条の2,70条,74条の2),製造業者等の副作用情報提供について努力規定を設けたこと(現77条の3)などが改正内容である。これによって,医薬品の安全確保体制はかなり整備されたことになる。
1950年代に入って薬害事例が多発したが,最初はそれが薬害であるのかどうかもはっきりしなかった。しかし,やがて原因究明が進められて,原因となった医薬品が指摘され,患者が多数発見されるようになって,薬害事件は大きな社会問題となった。サリドマイド事件,スモン事件などでは,被害者団体が組織され,被害者の救済を求める運動が展開された。薬害は,公害と同じく,医学的な因果関係がわかりにくいこと,患者の被害が医薬品の副作用によることが証明できたとしても,加害者である製薬会社に過失がなければ損害賠償責任を負わせることはできないこと(民法709条),などから,被害者が訴訟で勝つことは容易でないと考えられていた。
しかし,薬害の被害者は,全国各地で,危険な医薬品を製造・販売した製薬会社,危険な医薬品の製造を許可した国,そして投薬した医師などを相手どって損害賠償請求の訴訟を提起した。その多くは被害者グループによる集団訴訟であった。サリドマイド事件については,1963年の名古屋地方裁判所を皮切りに,京都地方裁判所,東京地方裁判所に訴えが提起された。71年には東京で最初のスモン訴訟が提起され,やがて各地でスモン訴訟が提起された。また,ストマイ訴訟,コラルジル訴訟,予防接種訴訟,大腿四頭筋短縮症訴訟,クロロキン訴訟などの訴訟がつぎつぎに提起された。
サリドマイド事件は判決を待たずに和解で終了した(1974)が,スモン訴訟では,金沢地方裁判所に始まり,東京,福岡などで被害者勝訴の判決があいついだ(1978)。他の薬害訴訟でも被害者の主張はほぼ認められた。裁判所は,大筋で矛盾なく説明がつけば因果関係を認める態度をとっており,また製薬会社・国についても,ともに医薬品の安全性確保にきわめて高度の義務があるとして,それらの過失を認めている。しかし,その後も薬害訴訟は続き,1990年代になると予防接種訴訟で予防接種を実施した国の責任を認める判決があいつぎ,和解も行われた。薬害エイズ訴訟も東京・大阪で提起され,裁判所の和解勧告に従って1996年に原告被告間に和解が成立した。
薬害訴訟における裁判所の努力により,薬害被害者が裁判によって救済されることは,より容易になった。しかし,訴訟には膨大な時間と労力・費用がかかる。スモン事件では,原告勝訴判決をてこに,判決を受けなかった被害者に対しても全面和解がなされたが(1979),一般には被害者が救済をうることにはなお多くの障害がある。そこで,1979年にさきに述べた薬事法改正とならんで,薬害の被害者の救済制度として〈医薬品副作用被害救済基金法〉(現,医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構法)が制定された。しかし,西ドイツ(現ドイツ)では,製薬会社の無過失責任と保険制度が導入されたのに対して,日本の基金法では,製薬会社などが民事責任を負うことが明らかでないときに,製薬会社からの拠出金によって設けられた基金から副作用被害者に対して,医療費や生活費(障害給付)などが支給されることになっている。予防接種訴訟の結果,予防接種法が1994年に改正され,被害者に対する救済措置が拡大強化された。また同年長年の懸案であった製造物責任法が成立し,医薬品を含む製造物の欠陥による被害に対して製造業者等の無過失責任が導入された。
執筆者:森島 昭夫
農薬を使用したときに作物に害作用が現れた場合をいう。薬害として目だつのは散布2,3日後に現れる急性の障害で,斑点,黄化,葉焼け,萎凋(いちよう),落葉,落果,発芽障害などがある。一方,はっきりした特定の症状を示さない生育不良や開花結実不良などの慢性的障害もある。薬害のなかには一時的,局部的な障害にとどまって影響の小さいものもあるが,多くの場合は収量減や品質低下に結びつき,永年生作物では翌年の生育に影響を及ぼすこともある。薬害が出る条件は作物の種類や環境によってさまざまであるが,農薬は本来,植物細胞に対してもなんらかの害作用を及ぼすのが普通で,使用法が適切でないと薬害が生じる。また,希釈を誤って濃度が高すぎるとき,散布量が多すぎるとき,薬液の調製が不均一であるとき,散布にむらがあるとき,干ばつなどで植物が生理的に弱っているときなどにも薬害のおそれがある。混合してはいけない組合せの薬剤を同時に用いたり,散布の間隔が短すぎるときも薬害が出る。気象条件の影響も大きく,夏の直射日光やハウスの高温を避けて散布しなければいけない。土壌中に残留した微量の薬剤が植物の根から吸収されて全身的な薬害を起こす例もある。園芸用のスプレー剤を用いる際,植物に近づけすぎると,ガスの気化熱で急冷されて壊死(えし)斑を生じるのも一種の薬害である。その他,薬剤そのものが製造上または貯蔵上の原因で不良の場合もある。
執筆者:奥田 誠一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
薬の投与または摂取によっておこった障害をいい、その要因には医薬品そのものの薬理作用(副作用)や催奇形性などの有害作用によるものと、病原微生物や化学物質の混入(汚染)によるものがあり、前者には、医薬品の併用投与による薬物相互作用の結果としての薬理作用の増強によるものもある。一般的に医薬品の副作用によるものが多いが、病原微生物の汚染による血液製剤でのエイズ感染症、B型およびC型肝炎、ヒトの脳を原料とした天然型ヒト成長ホルモン製剤(ソマトロピン)でのプリオンによるクロイツフェルト・ヤコブ病が社会問題となった。
薬害が話題となったのは、サリドマイド事件やキノホルム事件以来のことで、以下、代表的な薬害事件を年代順に述べる。
1956年(昭和31)ペニシリンによるショック死が報告され、皮膚反応テストの実施が通達された。1961年にはサリドマイドの催奇形性が世界的な問題となり、日本では翌1962年に全面回収が行われ、医薬品としての使用が禁止された。1965年にはアンプル入りのかぜ薬によるショック死がおこり、同年キセナラミンによる肝障害が話題となった。1967年にはリン酸クロロキンによる視力障害が報告され、製造販売が中止された。1968年にはクロラムフェニコールによる血液障害が重大な副作用として問題となり、使用が制限された。
1970年になると、キノホルムがスモンの原因であることが判明し、大きな社会問題となった。1971年にはコラルジルによる脂肪肝の発生が報告され、製造が中止された。1975年には小児に多発した大腿(だいたい)四頭筋拘縮症の原因がスルピリンやクロラムフェニコールの筋肉注射によることがわかり、筋注用注射剤による組織障害性が問題となった。1976年にはビスマス塩の大量投与による精神神経障害がオーストラリアとフランスの両国で報告され、ビスマス塩の一般用医薬品への使用が禁止された。1977年にはビグアナイド系経口糖尿病薬による乳酸アシドーシスが報告され、死亡率50~60%といわれた。また同年、アミノピリンの内服により発がん性のニトロソアミンが生成されることが実験的に認められ、一般用医薬品としての使用が禁止された。
1980年代に入ると、薬害エイズ事件、薬害C型肝炎事件が発生した。1984~1985年にかけて、血友病患者の唯一の治療薬である血液凝固第Ⅷ因子および第Ⅸ因子の非加熱製剤の投与による、エイズ感染での死亡例が、日本で初めて報告された。当時は製剤および原料のほとんどをアメリカからの輸入に頼っており、エイズウイルスに汚染された血液が原料となっていたことが原因である。血友病患者のエイズ感染問題は、アメリカではエイズウイルス汚染が確認されるやいなや同製剤の発売を中止し、加熱製剤への移行が進んだにもかかわらず、日本では非加熱製剤の使用が続けられたため被害が拡大し、厚生行政を揺るがす大きな薬害事件となった。
C型肝炎事件は1986年9月から1987年4月にかけて、青森県三沢市の産婦人科医院で、非加熱フィブリノゲン製剤を投与された産婦8名がC型肝炎(当時は非A非B肝炎といった)に感染したとの報告から始まった。このフィブリノゲン製剤はウイルスを不活化するため以前はβ(ベータ)プロピオラクトンを添加していたが、HBsグロブリンを添加する方法に変更されたもので、変更以前はまったく感染は発生していなかった。その後、加熱製剤も出たが、C型肝炎ウイルスの不活性化はなされず被害が増大し、薬害C型肝炎事件として裁判にまで発展した。
1990年代に入るとソリブジン薬害事件がおきた。ソリブジンは抗ウイルス剤で、単純ヘルペス1型、水痘、帯状疱疹(ほうしん)ウイルス、EBウイルスに有効で、帯状疱疹の治療にアシクロビルの20分の1以下の量で有効であることなど期待された薬剤であった。がん患者の帯状疱疹の治療に抗がん剤の5-FUと併用してよく用いられたが、1993年(平成5)9月の発売後、約1か月足らずのうちに重篤な副作用が発生し、死亡例が出たため、11月1日より自主回収された。その間の副作用発現患者23例中で、死亡したのは14名であった。
厚生労働省は医薬品の副作用による事故を未然に防ぐため、製薬企業に対して「市販後調査の基準」を定め、さらに新薬の重篤な副作用は、発売直後によく現われることから「市販直後調査」が義務づけられた。また、製造販売業者、医療機関等薬局開設者、病院、診療所、飼育動物診療施設の開設者、医師、歯科医師、薬剤師、獣医師その他の医薬関係者に対しては「医薬品又は医療機器について、当該品目の副作用その他の事由によるものと疑われる疾病、障害若しくは死亡の発生又は当該品目の使用によるものと疑われる感染症の発生に関する事項を知った場合において、保健衛生上の危害の発生又は拡大を防止するため必要があると認めるときは、その旨を厚生労働大臣に報告しなければならない」と薬事法で定められた。
医薬品の副作用および病原微生物によって汚染された生物由来製品の投与による感染症の発生等、健康被害を受けたものに対しては、独立行政法人医薬品医療機器総合機構の「医薬品副作用被害救済制度」と「生物由来製品感染等被害救済制度」によって救済がなされている。
[幸保文治]
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…さらに臨床試験では,個体による反応のばらつきを無作為に均等化することによって,比較試験が行われる。 このように緻密(ちみつ)な試験が行われるにもかかわらず,薬害による不幸な事件が後を絶たない。そこで副作用とはなにかについて考えてみたい。…
…薬害の一つ。リン酸クロロキンchloroquini phosphasを長期間,大量に服用したときに起こる視力障害。…
※「薬害」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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