古川町
ふるかわちよう
面積:九八・一一平方キロ
古川盆地を中心に,北は流葉山から本堂山にかけての稜線により宮川村・河合村、西は尾崎山・猪臥山の連峰により大野郡清見村、南は猪臥山・安峰山の支脈により国府町、東は安峰山から数河峠の脊梁により神岡町に接する。古川盆地を囲む山麓および扇状地の末端は急崖をなしている。宮川は盆地のほぼ中央で荒城川を合せ、盆地西側を北西流する。国道四一号・JR高山本線もほぼ宮川に沿う。古川盆地は飛騨では原始時代遺跡が最も多く、古代から飛騨文化の一中心となっていた。
古川町
ふるかわちよう
東山区三条通白川筋西一筋目南入
天正以前より若狭街道とよばれた街路が、南北に通った。「坊目誌」によると、廃道となってながく田畑であったが、寛文六年(一六六六)再び旧道をひらいて古川町通となし、同時に町地に編入されたといい、文化以降、人家が密集して市街化が急速に進んだともいう。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「古川通 是古の若狭街道也、此通三条より知恩院古門前通まで凡五町程の間」とある。
古川町
ふるかわまち
[現在地名]横手市幸町
通称下内町の御免町の北で、城下最北端の足軽町。広義の本町の一部。寛文九年(一六六九)の横手絵図面(横手郷土史資料)に、山県清右エ門指南御足軽町小路三三戸とみえ、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に、北の方足軽町、町の長さ九三間とある。沽券地屋敷調壱人別帳(横手郷土史資料)によれば、南に接する御免町が下タ町と改称したので、昔から下タ町と通称していた足軽町は明治五年(一八七二)県に町名改正を願い、古川町となった。
古川町
ふるかわまち
[現在地名]熊本市古川町
唐人町・鍛冶屋町筋の東に続く町人町。「国誌」によれば、加藤清正の坪井川付替え以前は、河道が追廻田畑からこの付近を通って白川に注いでおり、ここは川底・沼沢地であったと伝え、町名はそれに由来するという。
古川町
ふるかわまち
[現在地名]富山市豊川町
鼬川左岸に沿い、西端は川端町に連なり、東端を南に折れると砂町、北に折れると鼬川を渡って向川原町に至る。古河町とも記す。安永八年(一七七九)の書上に町名はみえるが、本家数・貸家数の記載はない。
古川町
ふるかわちよう
[現在地名]釧路市古川町
昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと釧路村の一部(阿寒太)。昭和七年の世帯数六一・人口三三〇(釧路郷土史考)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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