可愛川(読み)えのかわ

日本歴史地名大系 「可愛川」の解説

可愛川
えのかわ

山県郡大朝おおあさ町から高田郡吉田よしだ町・三次市を経て島根県江津ごうつ市で日本海に注ぐごうの川のうち、三次より上流を可愛川と通称するが、近世には吉田川と称した。「芸藩通志」に「灌漑運漕その利甚広し、吉田・三次の間船運尤繁し」とあり、この水運はさらに現広島市域を流れ、瀬戸内海に注ぐ太田おおた川の支流三篠みささ川と結ぶことによって、奥備後の米・鉄などの重量物資を広島城下へ送る重要な交通手段となっていた。

「万覚書」(「庄原市史」所収)の元禄一三年(一七〇〇)の記録に、吉田川水運の始まりについて、寛永年間(一六二四―四四)の半ば頃「三次十日市山県屋宗右衛門、広島京橋同善右衛門、右弐人兄弟より広島三次へ御断申上、船三艘運上銀三枚ニて御赦免被仰付」ていたが、四十数年前、船は一五艘となり、「当年迄御公儀御支配被仰付候」とあり、民営で始まった水運が中途藩の支配となったことが知られる。

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改訂新版 世界大百科事典 「可愛川」の意味・わかりやすい解説

可愛川 (えのかわ)

広島県北東部を流れる江の川ごうのかわ)上流部の本流部分。広島県側での呼称で吉田川,郷川と呼ばれたこともあるが,1966年江の川が1級河川に昇格した際に名称統一があり,江の川とされた。西中国山地(芸北山地北端阿佐山に発し,南東へ大きく湾曲しながら中国(高田)高原を貫流し,途中に大朝壬生(みぶ)の両浸食盆地を形成する。土師(はじ)ダム下流から流路を北東に転じ,広島県西部に特有の北東~南西系構造線に沿ってほぼ直行し,三次(みよし)市に至って同規模の支流馬洗(ばせん)川と西城川を合わせ江の川となる。この間の延長は114.7km,流域面積は680km2谷底に米作中心の農村が続き,中流に毛利氏発祥の地である安芸高田市の旧吉田町が立地する。明治中期までは,川舟の運行が盛んであったが,現在は国道54号線がこれに並走し,また中国自動車道の完成によって流域の交通体系が一変した。1974年5月完成の土師(はじ)ダムは洪水調節,灌漑などを目的とする多目的ダムで,ダム地点の計画洪水流量毎秒1900m3のうち1100m3を調節できる。また,19kmの導水管によって1日30万m3の水を南接する太田川へ流域変更し,広島市およびその周辺の上水・工業用水の需要に応じている。分水された水を利用する可部発電所では最大出力3万8000kW(1997)を発電する。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「可愛川」の意味・わかりやすい解説

可愛川
えのかわ

広島県中北部の川。江川 (ごうがわ) の上流。全長 98km。大朝盆地に源を発し,北広島町,安芸高田市などを経て,三次盆地で他の諸支流を合わせて北西流,島根県に入って江川となる。江戸時代には,かんな流し (砂鉄採取) が盛んに行なわれ,そのために河床が上昇して洪水がしばしば起こった。 1974年八千代町 (現安芸高田市) に,広島湾岸に分水するための土師 (はじ) ダムがつくられた。

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世界大百科事典(旧版)内の可愛川の言及

【江の川】より

…この川の名称は,旧河川法の時代には広島県側が郷川(ごうがわ),島根県側が江川(ごうがわ)と告示されていたが,1966年4月に1級河川に指定された際,江の川と統一された。本流は広島県山県郡大朝町阿佐山に発する可愛川(えのかわ)であり,標高400~700mの中国(高田)高原の上を南東へ,ついで北東に流れて三次(みよし)市に至り,ほぼ同じ規模の支流,馬洗(ばせん)川,西城川,神野瀬(かんのせ)川を合わせる。その後,流路を西方へ反転させ,中国山地の隆起に抗して江の川関門と呼ばれる深い峡谷をうがち,典型的な先行性流路を形成する。…

※「可愛川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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